WOOD STUDIO 銀河工房
本文へジャンプ
一木在神
工房の沿革と理念
一の柱・創作家具
ニの柱・アート
三の柱・建築
コラム







   私たち日本人は、古来から木に囲まれ、自然に親しんで生活を営んできた。
 
   太古の時代から少なくとも明治に至るまで、住まいをはじめとする建築物は
   すべて木造であったし、身のまわりの道具も大部分が木製であった。

   それは、なによりも日本が森林国で、木材はごく身近にあり、手軽に入手できる
   材料であったからにほかならない。

   また、他の材料にくらべ、加工しやすい材料であったことも大きな理由である。

   そして、木材の淡白な材質感、その素朴な木肌の感触、自然な木理のあやなす
   美しさはわれわれ日本人の心のうちに、もっとも端的に受け入れられた。

   数千年の歴史をもつ日本人が、木と同化して培ってきた木の文化は、いま現代
   文明の中で忘れ去られそうになり、また、一方では木のよさが見直されてきている。

   それは、日本人にとって、どんな意味をもつのか、考察してみたい。





   何かひとつ新しいモノを購入するときに、ひとは、何を基準に選択するのか。

   私の場合は、そのゆく末、古くなったときの姿を思ってみる。
   新しいときはみな一様に魅力的だが、古くなるとデザインはその本性を現す。

   それはゴミの山に埋もれた姿か、それとも古くても愛着が持てる姿かである。

   合板を使った量産家具は、完成した時点が一番美しく、年月とともにみずぼらしく
   なってゆく。

   質が高くて何年も使える無垢の家具とは比べようもない。

   先人は木の持ち味を生かすために釘は使わず、巧みに組み手を作って、その
   強さをひき出し、高温多湿の夏と、乾燥する冬の気候条件に、息をするように
   形を変える木材を、美しい造形にまで昇華させている。

   しかし、戦後、私たちは、生産性、新素材の開発に目をうばわれ、自然の木材の
   よさ、手づくりのよさを見失ってしまった。

   使い手の人々の意味のない無制限な消費と、デザインし企画する人々や、
   流通関係者のこころないあと押しによって、この傾向が増長されていった。

   だが、これまで木材が使われてきた諸用途を大観すると、木材でなければ
   ならないというより、単に身近にあって安く使うことが出来るという理由だけで、
   使われてきた場合が少なくない。

   このような場合には、より安くて、使いやすい材料が現れれば代替されてゆくのは
   当然のことである。





   現在、木製家具の8割以上は、心材に木のチップを糊で固めた合板を使っていたり、
   木の骨組みに合板を張ったフラッシュ構造のものである。

   すべてが無垢の木でできている家具は、ごくわずかである。

   大量生産された家具と違い、無垢材を使った家具は、割れや反りが生じやすいので、
   デパート等の家具売場の環境に適応しにくく、市場性が少ないといえる。

   また、高価であるため、一部趣味的な需要にとどまり、一般化は難しいといえる。
   
   しかし、西欧合理主義が生み出した現代のウッドインダストリアルというものは、
   千年の樹木をベニア板にして、数年しか保てない木工家具をつくるなど、その
   あり方は本来の日本の木の仕事とは、まったく異なったものである。

   日本という特殊な風土に生まれ育った木を、その風土に生まれ育った人間が生活
   するために利用する時、西洋のウッドインダストリアルにない、特殊な精神的背景
   を有するはずである。

   また、生産と廃棄をセットで考えてきた、これまでのようなモノづくりの発想は通用
   しなくなるといえる。
   
   使う側においても、使い捨て感覚の上に成り立った消費行動は大きく変わっていく
   だろう。
   
   大量生産は大量消費を前提として成り立つものである。
   結果的に物は増えて家の中は狭くなる。

   一つの者を大事に長く使うのと、使い捨てで消費するのと、どちらが本物の合理性
   であろう。






   私たちが、手づくりによってできた上等なものに共感を覚えるのは、それをつくった
   人間の、厳しい修練とモノとの深い交感に、真摯な態度を読み取るからではない
   だろうか。

   一方、プレスによって大量に生産されるものには、気軽さは覚えるが、それ以上の
   ものを感じとることはできない。

   人類の後世に残る美術的遺産は、早さと量を競うものでも、非人間的なものでもない。

   ひたすら人の手でコツコツ作られたものである。

   以上は、木工芸における使い手の立場からの意見であり、次に、作り手はどうある
   べきか述べてみたい。

   木工芸の場合、一通りの事ができる様になるまで十年ぐらいはかかるであろう。

   その時点で一応の夢がかない、ものを作り出すというささやかな誇りに満たされる
   ことになる。

   しかし、工芸品が人間の生活を通じて人間に与える影響力についての責任、などと
   いう精神的な欲求にまでは高まらない事がが多い。





   木の持っている長い生命にふれる仕事をするならば、自分の行為が永遠の一部分を
   受け持っているのだという自覚が生まれ、物事を長い目で見、考えるようにならなけ
   ればならない。

   そうした永い努力の工夫の積み重ねにより、思考の内圧がある点を越えると加速力
   を持ち、物事の真実を閃きのように悟るという事が可能となるはずである。

   こうした思考法は戦後途切れ、人間が仕事をする事の本来の意味である精神への
   作用を忘れてしまった。

   単なる技術者として生計を立てていくだけなら安易であるが、自分にとっての仕事とは
   何かを考え、自分の精神が求める道を行く、いわば、その人の生命観とか自然観と
   いった、哲学の世界に通じる精神性、それを表現するセンスが必要であろう。

   最後に、「作り手」=「良いもの」という考え方は、ややもするとその分野の技術的発達
   に足かせをしてしまう。

   近代産業の技術発達と融合できるナイーブな技術振興を考え、よい材料で良い
   伝統的知識と技術によってつくられた製品が、充分な知識と判断力を持った人々に
   使われる社会。

   ものを大切にする社会こそ、我々が目指すべき社会であろう。

   モノを大切に使う行為は、すべての生命と存在を味わい、慈しむことであり、生命の
   無駄使いをしないという証でなければならない。










          モノ作りに関する一考察