浄土への五つの門…五念門

もう一つの私の死後の世界

 自分が死んだ後の世界には、自分の行く末の世界と、自分が死んだ後に残されたものたちの世界があります。
 私自身の行く末のことを心配するのは、まさに自己中心的な生き方、我執我所執の極みです。自らの行く末だけを心配する私の、何と身勝手なことか。
 しかし、私たちの先祖はこの残された世界のことを考えて生きてきました。財産をどうするか。残されたものが生きていくのに困らないようにするにはどうしたらいいか。でも、このように身内の行く末を心配して苦しむのもまた私たちの姿であります。
 ところで、私たちは類的存在として、世界の行く末も心配することのできる存在でもあります。環境問題を考えるということは、類的存在としての他の人を我がこととして考えることであります。そして、世界の人々の願いを私の願いへと変えていくこともできます。これを仏教では菩薩道といいます。浄土教の祖師たちもまた、この道を生きてきた人たちでありました。
 以下、天親菩薩の「 往生論」と曇鸞大師の「往生論註」を編集して、「 浄土への五つの門」のことを紹介します。いつも自分自身がくり返し読むことができるように。
 訳は徳勝寺様の「 無量寿経優婆提舎願生偈註」を参考にさせていただきました。 

浄土への五つの門

    曇鸞大師の「 往生論註」より
 迷いの世界から悟りの世界(浄土)へ往くには門が五つある。一つには礼拝(らいはい)門、二つには讃嘆(さんだん)門、三つには作願(さがん)門、四つには観察(かんざつ)門、五つには回向(えこう)門である。
 「 門」とは、出入することを意味する。人が門を得たならば、入るのも出るのも自在である。五念門の中で前の四念は安楽浄土に入る門であり、後の一念は慈悲のために迷いの世界に出る門である。

 礼拝門とは仏を合掌礼拝することである。礼拝は「 身業(しんごう)」であり、阿弥陀如来・ 応・ 正遍知を礼拝したてまつる。
 諸仏如来には、無量の徳がある。徳が無量であるから、その徳をあらわす名もまた無量である。「 如来」とは、諸法のありのままの如く心に解り、諸法のありのままの如く口に説き、諸仏が法性をさとってあらわれたもうごとく、この私もまたこのようにあらわれて、さらに迷いの中に去られない。ゆえに「 如来」と名づける。
 「 応」とは応供である。仏は煩悩をことごとく除いて、すべてをさとった智慧を得ておられる。あらゆる天地の衆生の供養を受けるべき方であるから「 応」という。「 正遍知」とは、一切の諸法は本来不壊であり、不増不減であることを悟ったのである。どういうのが不壊であるのか。心で考えることができず、ことばであらわすべきすべをこえている。諸法は、本来涅槃が不生不滅であるごとく不動である。こういうことを知るから「 正遍知」と名づける。
 
 讃嘆門とは念仏である。口によって仏を褒め称えたてまつる。讃嘆は「 口業」である。
 無碍光如来を信じてその名を称えることである。仏の光明は、智慧からあらわれた相であって、この光明が十方世界を照らして、なにものにもさまたげられず、よくあらゆる人たちの無明煩悩の黒闇を除いてくださることは、日月や珠の光が、ただ空穴の闇を破るようなのと同様ではない。かの無碍光如来の名号は、よく衆生のすべての無明を破って、よく衆生のすべての願いを満たしてくださるのである。
 「 ところが口に名号を称え、心に念じながら、無明がなおあって、その願いの満たされないものがあるのはどういうわけか」といえば、それは無得光のいわれにかなうように修行せず、名号のいわれに相応しないからである。
 どういうのが無碍光のいわれにかなうように修行せず、名号のいわれに相応しないのであろうか。それは、如来が実相真如をさとられた自利成就の仏であると共に、そのままが、われらを救いたもう利他成就の仏であることを知らないのである。
 また三種の不相応がある。一つには信心が淳くない。ときにはあり、ときにはなくなるからである。二つには信心が一つでない。信が決定しないからである。三つには信心が相続しない。自力の心がまじわるからである。
 この三句は、互いにくみあってその意義を成立させる。信心が淳くないから決定の信がない。決定の信がないから信心が相続しない。また信心が相続しないから決定の信が得られぬ。決定の信が得られないから、信心が淳くないともいえる。
 こういうわけで、天親菩薩は《 浄土論》のはじめに「 我一心に」といわれたのである。

 作願門とは、心に常に作願して、一心に専ら、畢竟じて安楽国土に往生せんと念じて実の如く奢摩他(しゃまた)を修行せんと欲うこと。作願は「 意業」である。
 「 奢摩他」を翻訳して止という。止とは心を一個処に止めて悪をなさぬのである。「 奢摩他」を止というのには、三つの義(意味)がある。
 一つには、一心に専ら阿弥陀如来を念じて、かの土に生まれようと願えば、この如来の名号およびかの国土の名号がよく一切の悪を止める。
 二つには、かの安楽浄土は三界とは別なる清浄涅槃の世界である。もし人が、またかの国に生まれたならば、浄土の土徳として自然に身口意の悪を止める。
 三つには、阿弥陀如来の正覚によって持たれる力が、自然に声聞・ 縁覚のさとりを求める心を止める。この三種の止は、如来のまことの功徳からおこる。

 観察門とは、智慧をもって観察すること。心にそのものがらを見るのを「 観」という。その観ずる心が明らかであるのを「 察」という。観察は「 智業」である。
 観というのにはまた二つの意味がある。一つには、この世界にあって想をなして、かの浄土の三種荘厳の功徳を観ずるのである。この功徳が如実であるから、修行すればまた如実の功徳を得る。如実の功徳とは、間違いなくかの浄土に生まれることである。
 二つには、またかの浄土に生まれ、すなわち阿弥陀仏を見れば、初地以上七地以前のまだ平等をさとらない菩薩も、ついに平等法身のさとりを得て、八地の浄心の菩薩、それ以上の上地の菩薩とついに同じように寂滅平等の法を証る。

 回向門とは、一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願して、回向を首と為して大悲心を成就することを得ることである。回向は「 方便智業」である。
 回向に二種の相がある。一つには往相、二つには還相である。
 往相というのは、自分の修めた功徳をもってすべての人に施し、願をおこして共々に、かの阿弥陀如来の安楽浄土に生まれようと願うことである。
 還相とは、かの浄土に生まれた後に、作願・ 観察の自利が成就し、利他の方便力を成就することを得て迷いの世界にあらわれ、すべての衆生を済度して仏道に向かわせることである。往相であっても、還相であっても、みな衆生の苦しみを除いて迷いを渡らせるためである。

 問うていう。上にいうてあるような「 生」=「 無生」の道理をさとるということは上品(じょうぼん)の往生者にいうことである。下品(げぼん)の人のごときは、ただ十念念仏によって往生するので、実生実滅の執着を持っているのではないか。ただ実生を執ずるならば二つの疑いに堕ちる。一つに、恐らくはこういう実生実滅を報ずる凡夫は往生を得ないであろう。二つに、往生しても更に生死相対の惑いを生ずるであろう。
 答えていう。たとえば清浄なる摩尼宝珠を濁った水の中に置けば、珠の力で水が浄らかになるようなものである。もし凡夫人が無量劫のあいだ迷わねばならぬ罪があっても、かの阿弥陀如来の法性真如にかなったこの上なき清浄の名号を聞いて、これを濁った心の中にいただくならば、念念の中に罪が滅し清浄の徳を得て、往生が得られる。
 この五念門の功徳力はよくかの浄土に往生させて、自利利他を自在ならしめることである。この五種の業がととのえば、往生浄土の法門にかなって自利利他の業因(ごういん)が成就する。

浄土の家の五つの門(五果門)…この浄土への門を通ると

 また、さとりの世界(浄土)には五つ門があって順番に五つの功徳を成就していく。初めに浄土に生まれるのは、近相(門)である。すなわち大乗の正定聚(しょうじょうじゅ)に入り、無上菩提に近づくのである。浄土に入れば、そこで如来の大会衆(だいえしゅう)の数に入る。大会衆の数に入れば、まさに静かに禅定を修する宅に至る。その宅に入り終われば、まさに種種の観察を修行する屋寓(すまい)に至る。その自利の修行が成就し終われば、衆生を教化する地位すなわち教化地に至る。教化地(きょうけじ)というのは、すなわち菩薩がみずから楽しむ地位である。こういうわけで、浄土から出るのを園林遊戯地(おんりんゆげじ)門という。

 入の第一門とは近門(ごんもん)、阿弥陀仏を礼拝したてまつって、仏の国に往生を願う為にするを以ての故に、安楽世界に生ずることを得る。
 「 阿弥陀仏を礼拝して仏の国に往生を願う」のが第一の功徳相である。

 入の第二門とは大会衆門、阿弥陀仏を讃嘆したてまつって、如来の名号のいわれによって如来のみ名を称し、如来の光明智相に依って修行するを以ての故に、大会衆の数に入ることを得る。
 「 如来の名号のいわれによって讃嘆する」のが第二の功徳相である。

 入の第三門とは宅門、一心に専念し作願して彼の国に生まれて奢摩他寂静三昧の行を修するを以ての故に、蓮華蔵世界に入ることを得る。
 寂静三昧の行を修めるために「 一心に浄土に生まれようと願う」のが第三の功徳相である。

 入の第四門とは屋門、彼の妙荘厳を専念し観察して毘婆舎那(びばしゃな)を修するを以ての故に、彼の処に到りて種種の法味楽を受用することを得る。
 「 種種の法味楽」というのは、浄土の法性にかなった清浄なる徳を観ずる法味、衆生を摂めて大乗のさとりを聞かせる徳を観ずる法味、いつまでも変わらずに衆生に利益を与える徳を観ずる法味、衆生の類に応じてこれを化益し、仏土をそこにあらわして衆生を済度する徳を観ずる法味がある。このようにいろいろな浄土の楽しみがある。これが第四の功徳相である。

 出の第五門とは園林遊戯地門、大慈悲を以て一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示し生死の園煩悩の林の中に回入(えにゅう)して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向を以ての故に。
 衆生を救っていても救っているというとらわれの思いが無く、本願力の故に説法も難しくは無い。これが第五の功徳である。

他力と自力

 (法蔵)菩薩は五門の回向の因によって他の衆生を救うという果を得た。因も果も一つとして利他でないことはない。利他を満足することによってよく自利するのであって、利他を満足せずに自利するのではないと知るべきである。

 他利と利他とには相違がある。もし、仏よりいえば利他(仏が他である衆生を利益する)というべきである。衆生からいえば、他利(衆生が他である仏に利益させられる)というべきである。今まさに仏力を談ぜんとす。ゆえに「利他」を使われたのである。

 およそ、衆生が、かの浄土に生まれることも、浄土に生まれてからさまざまのはたらきを現わすことも、みな阿弥陀如来の本願力によるのである。
 なぜならば、もし仏力によるのでなかったなら、四十八願はいたずらに設けられたことになるからである。今これに相当する三願を引いてそのわけを証明しよう。

 第十八願に「 もし、わたしが仏になったとき、十方の衆生が心からわたしを信じ喜び、往生をねがい、十念念仏して、往生することができぬなら、決して仏となるまい。ただ五逆の罪を造り、正法を謗る者を除く」と誓われている。
 この仏願力によるから、十念念仏して往生を得る。往生を得るから三界にさまよわない。さまよわないから速やかに仏となることができる。これが一つの証拠である。

 また、第十一願に「 もし、わたしが仏になったとき、国の中の人たちが正定聚に住して必ず滅度のさとりに至ることができないならば、決して仏となるまい」と誓われている。
 この仏願力によるから正定衆に住する。正定聚に住するから、かならず滅度のさとりを得るのであって、ふたたび退転することがない。それゆえ、速やかに仏となることができる。これが二つの証拠である。

 また、第二十二願に「 もし、わたしが仏になったとき、他方の国の菩薩たちが、わが国に生まれてくれば、ついにはかならず一生補処の位に至らせよう。ただし、各自の希望によって、自在に衆生を化益するために、ひろい誓いを立て善根功徳を積んで、すべての者を救い、多くの仏国に出かけて菩薩行を修め、諸仏を供養し、数がぎりない衆生を導いて無上のさとりを得させることも自由にできよう。かくて、つねなみの菩薩の道にこえすぐれて諸地の行が現われ、普賢の徳を修めることができよう。もし、そうでなければ決して仏となるまい」と誓われている。
 この仏願力によるから、つねなみにこえて諸地の行が現われ、普賢の徳を修めることができる。つねなみにこえて諸地の行があらわれるから速やかに仏となることができる。これが三つの証拠である。

 こういうわけで他力の意味を考えてみるに、如来の願力を最上の力とするのである。どうして、そうでないということができようか。
 さらに例をあげて、自力と他力のありさまを示そう。人が三塗におちることを恐れるから戒律をたもち、戒律をたもつからよく禅定を修め、禅定を修めるから神通力を得、神通力を得るからよくあらゆる世界へ自由自在に行くことができる。こういうことを自力という。
 また、劣った者が驢馬に乗っても空へのぼる力はないが、転輪王の行幸に従えば、虚空にのぼってあらゆる世界へ行くのに何のさまたげもない。こういうことを他力というのである。

 尊いみ法に遇うたことである。後の代の行者よ、よろしく他力に乗託すべきことを聞いて、信心を生ぜよ、決して自力(自らのはからいに)こだわってはならぬ。

問い
 「 天親菩薩は、なぜ五念門と五果門をわざわざ分けられたのだろうか」
 「 親鸞聖人は、なぜ五念門を法蔵菩薩の修行と見られたのだろうか」
 私のような凡夫はこのようなことにさえ疑問を持ってしまう。そもそも、天親菩薩がこのような奇跡的な教えを示され、曇鸞大師がこのように稀有の解釈を示してくださった。そのこと自体が不思議なことなのに。
 
     二〇〇七、七
   目次へもどる