お念仏にたすけられた (ChatGTPと私の体験)
未来と将来 (三つの問い)
明日死ぬと思って生きよ (私たちはたとえで物事を理解する)
教行信証を読む (本典勉強会に参加して)
のぞみはないけどひかりはある (月影の歌)
大原騒動と円光寺浄明師のこと (同行を鏡となす)
寒念仏和讃 (古い和讃の復元)
「エモい」って他力? ( 左右、前後、与格構文の話・PDFファイル)
仏恩とは何か ( おかげ様と縁起と御恩報謝)
死に方プロデュース ( 人間であることの悲しみと喜び)
他力と自力 ( 五念門行と利他力のこと)
念仏申して ( 介護の貴重な記録・PDFファイル)
数学と仏教と憲法と ( 人間に光あれ・PDFファイル)
仏教の経済学 ( お布施=給与? ・PDFファイル)
お念仏のはたらきとお育て ( 方便論的個人主義・PDFファイル)
善知識とする道 ( 華厳経と菩提心と信心と善知識)
妙好人与之助さん ( 与之助さんの生涯・PDFファイル)
和讃と和歌 ( 思想の表現としての和讃)
応報( べし)考 ( 恩徳讃について)
関東ご旧跡巡拝の旅 ( 親鸞さんと出会う旅)
無量光…十二光 ( 法蔵菩薩の修行)
観無量寿経 ( イダイケのさとり)
指月の譬 ( 言葉「 指」と真実「 月」)
浄土の思想 ( 自分の國から菩薩の仏国土へ、そして浄土へ)
ベッカー教授に聴く ( 僧侶の役目)
老いへの恐れ ( 養生訓と徒然草)
死者との対話 ( お迎え現象・その後)
お迎え現象 ( おだやかな「 看取り」について)
行年の意味 ( 曽我蕭白行年三十四歳画)
門徒とアーミッシュ ( 宗教的共同体の文化と信心の相続)
仏教と科学 ( 仏教は物語である)
「 悪」の読み方について ( 漢音に近づける努力)
「 ノアの洪水物語」と「 三車火宅物語」 ( 東洋の英知)
「 空也上人がいた」 ( 念仏と遊行と介護)
私たちはどこから来たのか ( 仏の子)
釈迦はなぜ出家したのか ( 世間を相対化する浄土の働き)
浄玻璃の鏡 ( 物語としての仏教)
周利槃特(しゅり・はんどく)の悟り ( 学校でなぜ掃除をやるのか)
仏さまはどこにいるの? ( おばあちゃんの口癖)
凡夫だけどかけがえのない私 ( ぼくなんか居なくても変わらない)
仏の子と常不軽菩薩 ( 子の母をおもうがごとく)
二つに分かれる前の世界 ( 一如の世界から見る)
「 死に支度致せ致せと桜かな」一茶 ( パワーポイントで作成しました)
「 蜘蛛の糸」を廻る二つの物語 ( 二河白道・信心の道)
念仏はどのように行うのですか? ( 「 後世物語聞書」より)
この世は全てバーチャルである (現代における「 無自性・空」のとらえ方)
まかせることの難しさ ( 自力と他力…心臓手術の体験から)
毛坊主と妙好人 その二 ( 妙好人の生き方)
毛坊主と妙好人 その一 ( 念仏道場と毛坊主)
寺院の「 護持問題」 ( お寺の護持と課題)
春の永代経 ( 年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず)
二つの功徳 ( スジャータの供養とチュンダの供養)
古今伝授と国ゆずり ( 古今集仮名序にみることばのちから)
浄土教の美しい思想 ( 還相の菩薩)
本当の幸せとは・・・働く幸せ ( 真の貧困と真の豊かさ)
かうまで申し候ふも御恩のちからなり ( 山越阿弥陀図と平生業成)
出会えた不思議さと出会えない悲しみ ( 対称性)
人生の意味 (『 夜と霧』を再読して)
二つの「 私」 (「 私-それ」の「 私」と「 私-汝」の「 私」)
映画「 おくりびと」を見て ( 死は門を通るだけ)
脳の中の小人たち ( 諸法無我・その2)
「 人間的自然の理性化」から「 理性の人間的自然化」へ ( 理性について)
裏と表の話 ( 機法一体)
阿弥陀くじと後光と傘連判状 ( いのちの平等性)
差別と多様性と同一性 ( 多様性の海から同一性の浄土へ)
わがこころのよくてころさぬにはあらず ( 縁起と唯識)
我愛福徳…なぜ功徳を積むのか? ( アヌルダの問い)
神の存在証明 ( 科学と宗教)
0の発見と仏教 ( 縁起と空)
切干しと縁側の話 ( 縁起の道理)
準備はできましたか ( 死と生)
後生の一大事 ( 美濃島与之助さんの話)
シュレーディンガーを追体験 ( 諸法無我・その1)
葬式を大事にする仏教 ( 葬儀の商品化)
浄土への五つの門 ( 往生論註・五念門と五果門)
死後の世界について ( 無生の生)
浄土論 ( 浄土はこの世にあるのか、あの世にあるのか)
他力の信心 ( 私の中にある自己中心性をどうしたらいいのか)
雪の俳句 ( 井上井月のこと)
学仏大悲心 ( 仏の大慈大悲)
本願に相応する ( 他力とは)
不自由な耳に聞こえる声 ( 聴と聞について)
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