善知識とする道

華厳経と菩提心と信心と善知識

1、教行信証後序の最後の引文

華厳経( 入法界品・唐訳)の偈にのたまふがごとし。
「 もし菩薩、種々の行を修行するを見て、善・不善の心を起すことありとも、菩薩みな摂取せん」と。
この教行信証の後序の文の最後の引文が気になる。
華厳経入法界品からの文である。
この最後の文の意味は何だろうか? なぜ最後なのだろうか?
最初、入法界品を調べていて、かなり時間がかかってしまった。
善財童子の物語はあまりにも面白い、がこの偈の意味はわからない。

いろいろ調べるうちに、往生要集に行きあたった。
源信僧都の「 往生要集」の最後に次の文章が出てくる。
ご自身の著書についてご自身で問いかけている。
問ふ。
引くところの正文はまことに信を生ずべし。
ただしばしばわたくしの詞を加す。
いかんぞ人の謗りを招かざらんや。
答ふ。
正文にあらずといへども、理をば失せず。
もしなほ謬まることあらば、 いやしくもこれを執せず。
見るもの、 取捨して正理に順ぜしめよ。
もしひとへに謗りをなさば、 またあへて辞せず。
華厳経の偈にのたまふがごとし。

「もし菩薩の、種々の行を修行するを見て、
善・不善の心を起すことあるを、菩薩みな摂取す」 と。
以上         (ありとも)親鸞さんの読み
まさに知るべし、謗りをなすもまたこれ結縁なり。
われもし道を得ば、 願はくはかれを引摂せん。
かれもし道を得ば、 願はくはわれを引摂せよ。
すなはち菩提に至るまで、たがひに師弟とならん。
声に出して読んでいると、こみあげてくるものがある。
往生要集を著された御労苦と同時に、その真摯な姿勢に頭が下がる。
道を行くもののあるべき態度が見事に示されている。
そして、この「 互いに師弟とならん」という言葉は、そのまま入法界品の「 善知識」につながっていく。

2、求道心(菩提心)=道

教行信証に華厳経がたくさん引用されているのはなぜだろうか?
教行信証を読んでいて、引文の元の意味を調べようとして途方にくれる時がある。 例えば、私は華厳経すべてはとても読むことができない。でも、その意味をつかんでいないと…と思ってしまうのだ。
そこで、読みやすい入法界品から入ることにした。

入法界品は、善財童子の求道の旅の物語である。
彼は、菩薩の道=人生の道を聞くために、五十三人の善知識を訪ねる。
五十三人の善知識は、比丘( お坊さん)だけではない。 女性、遊女、医師、富豪、商人、少年少女、仙人、芸人、神、王様、マーヤー( 釈尊の母)など様々な人々がいる。
そして、善知識に出会う善財童子の生き方そのものが、生きる道( 菩薩の道)であることを示している。
最初、善財童子は旅の途中の文殊菩薩の話を聞いて感動し、
「 私は無上菩提を求める心を起こし、菩薩道を極めたいと発心しました。ぜひ連れて行ってください。」
と頼む。しかし、文殊は「 その発心が第一の蔵であり、一切の智慧がそこにある。」と告げ、次の善知識の元を訪ねよと言う。 かくして、善財童子の求道の旅が始まる。

一番目の善知識は仏に帰依すること、念仏三昧法門( 常に仏をイメージ)することを、
二番目の善知識は海を法の譬えとしながら無限の法に帰依することを、
三番目の善知識は六波羅蜜の大切さとサンガに帰依することを善財童子に教える。
そして、四番目の善知識が名医メーガ。

医師メーガは、交差点の獅子座に座って、多くの人に囲まれて彼らの訴えを聞きながら一人ひとりに答えていた。
善財はメーガに尋ねる。
「 私は、かの無上菩提を求めて発心いたしました。 しかし、どのように菩薩の行を学び、どのように菩薩の道を歩めばよいのかわかりません。 どうか教えて下さい。」
すると、獅子座に座っていたメーガは、「 本当にその心を起こしたのか?」と確認し、 高座から降りて、善財童子を礼拝( 五体投地)し、
「 無上菩提を求める心を起こされた方に深く礼拝し、敬い申し上げます。」
と述べる。
求道心( 菩提心)を求める心を起こしたことが、将来の果である徳道の因であるから、 果よりももっと大切なことで、尊いことだと。

最初の文殊菩薩も同じようなことを言っていた。 発心できたことはとても大事なことだ。でもそもそも、善財はどうやって文殊の話を聞いただけで発心ができたのか?

栂尾の明恵さんは、華厳宗の僧侶である。
明恵さんは生前の法然上人を尊敬していたが、選択集を読んで、ここには求道心( 発菩提心)が無いと批判される。 仏道を志す者は、最初に菩提心を発しなければならない。それを否定しては仏教者としての自身のあり方を否定することに他ならないと。
選択集から該当する部分を拾ってみる。
「 一向にもつぱら無量寿仏を念ず」( 大経・下)とはこれ正行なり、またこれ所助なり。 「 家を捨て欲を棄て沙門となりて、菩提心を発す」( 同・下)等はこれ助行なり、またこれ能助なり。
いはく往生の業には念仏を本となす。 ゆゑに一向に念仏を修せんがために、「 家を捨て欲を棄て沙門となりて、また菩提心を発す」( 大経・下)等なり。
私には決して菩提心を否定しているように読めないが、家を捨て欲を捨てて一心に修行している明恵さん御自身のことを否定されているように感じられたのかもしれない。
法然上人は菩提心を否定したのではなく、菩提心から出発する仏教を否定し、念仏から出発する仏教を起こしたのだ。
菩提心から出発する仏教は、自らの命をも捨てようとする。そして、それを他にも強制する。それは命をこそ大事にする仏教徒として間違った道であると。
すべての者は暴力におびえ、すべての者は死を恐れる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
すべての者は暴力におびえる。すべての生きものにとって生命は愛おしい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。  ダンマパダ
この、念仏には求道心( 発菩提心)が無いという批判に対して、そうではないということを論証するためには、華厳経を引用する必要がある。 親鸞さんが華厳経を引用された理由の一つだと思われる。
入法界品の善財童子に菩提心を発せさせた法を「 文殊の法」という。
親鸞さんは、
文殊の法はつねにしかなり。法王はただ一法なり。」 ( 行文類)
と述べられ、 「 智慧の念仏」こそが、菩提心を生み出す「 文殊の法」であると明らかにされた。

念仏の道においても、善知識を訪ねて法を求める妙好人がいる。
でも、そうしなくても、善財童子の求法の旅のように、私たちは人生の旅において善知識と出会ってゆく。 むしろ積極的に周りの人々を善知識とすることが大事なことになる。
念仏者は、そういった善知識を通じて仏と値遇い、大道である白道を歩んでゆく。

3、「 問い」の意味

様々な善知識への善財童子の「 問い」が素晴らしい。彼は、このように問う。

「 私はさとりを求める心を発しましたが、 いまだどのようなものが菩薩の行であり、どのように実践するのかわかりません。
○菩薩の道をいかに学び、いかに実践すべきか?
○一切衆生の苦悩を滅し、輪廻の海を越えて覚りの島に渡らせるにはどうしたら良いのか?
○どうしたら生死の苦の中においても菩薩の心を失わずにいられるのか?
○いかにして智慧の光をもって世間の闇を滅することができるのか?
○いかにして智慧の力をもって真実義をさとることができるのか?
○菩薩はなぜ仏とならないのか?、なぜ輪廻の道に現れるのか?
○諸仏の教えは不可思議であり、説くことはできないとされながら、なぜいろいろな言葉を尽くして説かれるのか?
○一切は空であり業報もないと知りながら、なぜ業報の恐るべきを説き続けるのか?
○菩薩の道はいかに行き、いかに修するのか?」

この問いに対して、善知識たちは応える。

まず、問うべきことを問うことの尊さを、 それが普賢の行願を修する者の問いであることをほめたたえる。
そして、諸仏の威神力をうけ、因陀羅網を得てこそ智の光明を放ちうることを明かして問いに答える。

例えば、善財は、「 菩薩の道はいかに行き、いかに修するのか?」と、善知識の一人自在主童子に問う。
その時、自在主童子は一万の児童と砂遊びを楽しんでいた。

「 文殊菩薩は私に、数学、占い、統計などを教えた。
私は、都市を設計し、機械の扱い方、農耕や商業の実務の知識があり、
善と不善を見分けて人々が地獄や餓鬼道に落ちるのを防ぎ、人々に糧を与える。
菩薩の算法をもってすれば、巨大な砂山の砂粒の数を知ることもでき、
一切世界の設計を知り、無量の仏・菩薩の数、衆生の無量の業を了知することができる。
しかし、私はただ、この巧術智慧法門( 技術の智慧の明るみの法)を得ているに過ぎない。」

そう答える。
数学に魅かれていた者として、数学を教えていた者として、とても共感できる。 砂遊びの場面は、学びの場としてのイメージが彷彿としてくる。
最後の「 この法門を得ているに過ぎない」という言葉は心にしみる。

これらの「 問い」の「 答え」が大事なのではない。
答は、問われることによって初めて現れるのだから。
この「 問い」はそもそも求道心から出てきていて、したがって菩提心そのものと言ってもよい。

そして、これらの「 問い」は「 願い」である。
かくなりたい、かくありたいという「 願い」が「 問い」になったものである。
「 答え」と同様に、「 願い」をかなえることが、「 願い」を立てる本当の意味ではない。 「 願い」を立てただけで、モノゴトが動き出すことはありえない。
だから、「 願い」がかなうことを当たり前のように思ってはならない。

しかし、本当の「 願い」は、やがて力をもち、力は自然にモノ・コトを動かすようになる。
願もって力を成ず、力もって願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力願あひ符うて、畢竟じて差はず。故に成就といふ。 ( 証文類)

4、ゴーパー女の話と女犯偈

最初にあげた後序の最後の引文は、善知識「 貴公女ゴーパー」の話の中にある。 この中の「 太子と町娘の恋」の話は、まさに、女犯偈とおなじテーマである。 愛する人と生きることは、互いを善知識として生きるのだということを示している。

妙徳という娘が、威徳という太子に恋をする。
「 もし、妻となれないなら死を望みます。」という決意をもって。
しかし、その母は身分の違いから、かえって苦しみ悲しむことになるとあきらめる様に諭す。
太子が成仏する夢を見て、神から励まされた娘は、太子に偉大な王となって天下を治められるようにと偈を述べ、身を引こうとする。
ところが、かえって太子はその姿に魅かれ、娘の素性を聞く。
そして、「 私はすでに無上菩提を求める心を起こし、菩薩行を修したい。 国も王宮も妻子も捨てて、世の人々のために修行したい。 もし家を出る時、美しい娘よ、あなたが障碍にならないだろうか」と問う。
これに対して、娘は偈を持って答える。
譬え地獄の火に身を焼くとも、我は太子に随順し、敢えてその苦を受けん。
一切の生死海に我を施したまうとも悔ゆることなし。
太子、若し法王ならば、願わくば我もまた然らしめたまえ。
太子、衆苦を見て菩提の心を発し、無量の大慈悲をもって衆生および我を摂したまえ。
我豪富を求めず、五欲の楽を貪らず、ただ願わくば共に法を行じて太子の妻とならん。
威徳太子はやがて転輪聖王となり、ゴーパー女はそれが釈尊であり、娘はヤショーダラであり、かっての自分であったことを明かす。
「 善・不善の心を起すことありとも、菩薩みな摂取す」という言葉には、このエピソードが含まれ、 親鸞さんは恵信尼への感謝の言葉として最後の引文を入れたのかもしれない。

善財童子( 私たち)は、善知識をこの娑婆の世界を生きていくためのよすがとし、 また様々な回りの人々を善知識として受け止めていく。 それが生きていくということであり、道を往くということである。

5、普賢の徳

旅の最後に登場する普賢菩薩( 普く勝れた賢者)とは何者なのか?

還相廻向の願である二十二願に、「 普賢の徳を修習せん」と出てくる。
まさに、この娑婆で「 還相の菩薩」として現われてくる方たちが、 私たちに、普賢の徳( =あらゆる慈悲行=五十三人の善知識( 還相の菩薩)の慈悲の教え)を 実践することができるようにしてくださるのである。
しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、 至徳の風静かに、衆禍の波転ず。
すなわち無明の闇を破し、 すみやかに無量光明土に至りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵うなり ( 行文類)
五十一番目の善知識弥勒菩薩は、善知識=菩提心=大道=菩薩行であることを明らかにし、 その道を歩んでこれたのは文殊菩薩のおかげであり、善財にとって真の善知識は文殊菩薩であることを示す。
そして、善財は再び文殊の元へとおもむき、文殊に導かれて普賢菩薩の行願の道場へと到るが、文殊は一緒には入らない。
このことは、智慧の象徴である文殊に導かれて、慈悲の象徴である普賢へと進む道を象徴しているように感じる。

こうやって振り返ると、善財童子の旅は、私たちの一生の旅と重なる。 ( 東海道五十三次はそれをイメージしたもの)
そして、私たちは自力ではできないけれど、 念仏を称えていると、自然に普賢菩薩のような慈悲利他の行動を行うことができるようになると。

6、菩薩の五十二位

華厳経十地品は、菩薩( 菩提心を持った人)の道を示している。
その道は、五十二段階あって、十信・十住・十行・十廻向・十地・等正覚・仏とレベルが上がってゆく。

」は、自分自身を信じて、自分自身を成長させ、人生に希望を持って、願いに生きる位。
これがスタート。最初は尊敬する人( 善知識)に出会い、目標とすることで菩提心( 仏性)に火がつく。
そして、この菩提心を持った人を菩薩という。

次に善財童子が行ったように、 菩提心をどう育て、どのように実践するのかというと、学習と人との交わりが大切になる。
」は、人生勉強をして、人生がわかり、何となく生きてきた場所や、自分を嫌悪していた心が薄らいで、私でよかった、ここが私の生きる場所だと決意して生活すること。

」は、習うこと。やってみること。自分の身体で学んだことを実践してみること。
それは、やがて身についてゆく。

廻向」とは、その実践の中で生じる私とあなたとの関係のこと。その関係から智慧と徳が生まれてくる。自利利他の菩薩行。
ここまでは、まだ自力。

」とは、菩提心を支える浄土が見えてきて、浄土に立つこと。
浄土そのものが信・住・行・廻向の菩提心となり、自己を現し証明していたことに目覚めた位。
この地の位を不退の菩薩といい、この初地を歓喜地という。
親鸞さんは、この喜びに出会った人を正定聚であり、如来と等しいと言われている。
華厳経( 入法界品)にのたまわく、 「 この法を聞きて信心を歓喜して、疑いなきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」となり  ( 信文類)
念仏の行者は、日々出会う人、出会う事件一つ一つを善知識とし縁として、魂を成長・進化させていく道を歩んでいく。 そして、その道に必要なのは唯一つ、信心である。この信について、華厳経の賢首品を引いて述べられる。
信は道の元とす、功徳の母なり。
一切のもろもろの善法を長養す。疑網を断除して愛流を出で、涅槃無上道を開示せしむ。
信は垢濁の心なし。清浄にして驕慢を滅除す。恭敬の本なり。
また法蔵第一の財とす。清浄の手として衆行を受く。信はよく恵施して心に悋しむことなし。
信はよく歓喜して仏法に入る。信はよく智功徳を増長す。信はよくかならず如来地に到る。
信は諸根をして浄明利ならしむ。信力堅固なればよく壊することなし。
信はよく永く煩悩の本を滅す。信はよくもつぱら仏の功徳に向かへしむ。
信は境界において所着なし。諸難を遠離して無難を得しむ。
信はよく衆魔の路を超出し、無上解脱道を示現せしむ。信は功徳のために種を壊らず。
信はよく菩提の樹を生長す。信はよく最勝智を増益す。信はよく一切仏を示現せしむ。
このゆゑに行によりて次第を説く。信楽、最勝にしてはなはだ得ること難し。 ( 信文類)
親鸞さんは、このスタートの信こそが菩提心の大本であり、 その菩提心は、「 浄土の菩提心」だからこそ十地の菩薩と同じなのだと明らかにされた。
信心=菩提心=願作仏心=度衆生心=如来なのである。
浄土の大菩提心は
 願作仏心をすすめしむ
 すなはち願作仏心を
 度衆生心となづけたり

度衆生心といふことは
 弥陀智願の回向なり
 回向の信楽うるひとは
 大般涅槃をさとるなり

如来の回向に帰入して
 願作仏心をうるひとは
 自力の回向をすてはてて
 利益有情はきはもなし

参考文献 「 善財童子の旅」現代語訳華厳経入法界品 大角修著
       「 仏教開眼 四十八願」 島田幸昭著

    仏暦二五五八年( 平成二七年)三月

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