和讃と和歌

思想の表現としての和讃

一、和歌と和讃

俳人の辞世の句をオリガミ六角形にする」ことを試みていた。
オリガミ六角形は三場面あるから、俳句にの序破急にぴったりなのだ。
これを見せながらの法話は、皆さんに興味を持って頂ける。

そこで次は和讃をオリガミ六角形にしようと考えた。
ところが、あまりの難しさに断念した。
なぜ難しいのだろうか。

最初それは内容にあると思って、親鸞さんの和歌ならできるのではと考えた。
親鸞さんの和歌を調べていたら、有名な「 明日ありと思う心の・・・」も、ご自身の歌とは言えないらしい。
そうなると、次の疑問が浮かんでくる。
法然上人や一遍上人は和歌を作っておられる。
親鸞さんはなぜ和歌を作らなかったのだろうか。

親鸞さんが和歌を作らなかった理由が、「 親鸞聖人正明伝」にはエピソードとして書いてある。 佐々木正『 親鸞始記 隠された真実を読み解く』
この理由は、「 安城の御影」のテーマにもなっているという。
とすると、親鸞さんは意図して和歌ではなく和讃を選ばれたということだ。

つまり、「 仏法の表現として」和讃を選ばれた理由があるはず。
親鸞さんはなぜ和歌ではなく、和讃を作ったのか

まず、和歌と和讃の違い
      和歌              和讃
( 一) 57577           75757575
( 二) 57調と75調        75調
( 三) 優雅              リズミカル
( 四) 区切れがほぼ決まっている どこで切るのか自由
次に57調の歌を調べてみた。
これが極めて少ない。
名も知らぬ 遠き島より
  流れよる ヤシの実一つ
  故郷の 岸を離れて
  汝はそも 波に幾年
と君が代ぐらい
ほとんどの歌が7575調である。
平家物語の冒頭の句は75調である。
「 いろは歌」も「 黒田節」も「 君死にたまふことなかれ」も75調。
「 荒城の月」も「 北の宿」も「 青い山脈」も「 青春時代」も75調。
私たちの身体のリズムに染み込んでいる。

では、表現はどうなっているのだろう。
富めるものの 訴えは
 石を水に入るが ごとくなり
 乏しきものの あらそいは
 水を石にいるるに にたりけり
罪障功徳の 体となる
 氷と水の ごとくにて
 氷多きに 水多し
 障り多きに 徳多し
というように、和讃は対句表現ができる。
極めて漢文的なのである。

また、4句一首だけでなく、連続した、長歌の様に表現できる。
一切菩薩の のたまわく
 われら因地に ありしとき
 無量劫 へめぐりて
 万善諸行を 修せしかど
恩愛はなはだ たちがたく
 生死はなはだ つきがたし
 念仏三昧 行じてぞ
 罪障を滅し 度脱せん
この例はもっと長いものもある。
ここまで調べて検索してみた。
なぜ一遍が和歌を作って、親鸞が作らなかったか】 デニス ヒロタ著
 というサイトを発見。

まず、言語へのとらえ方に共通するものがあると述べている。
一遍さんにとっては、さとりの表現・さとりへ導く手立てとして和歌が最適だった。
となふれば 仏も我もなかりけり
      南無阿弥陀仏の声ばかりして
自らの計らいや分別を捨ててしまったその時、十劫の成仏と唯今の念仏は異なったものではなく、 念仏となって出ずる息そのものが阿弥陀仏である。
となふれば 仏も我もなかりけり
      南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
親鸞さんにとっては、自己存在の罪悪性と仏の大慈大悲大智の間の矛盾は切り離せないものであって、 矛盾した二つの面を同時に表すためには和歌よりも和讃の方が適切であったと述べている。
確かに親鸞さんの和讃には懺悔と讃嘆が同時に表現されている。 そこでは懺悔は讃嘆に移り、讃嘆は懺悔に移っている。 凡夫性(自己否定)と摂取不捨は同時なのだ。
つまり、親鸞さんにとって、ご自身の思想と和讃という表現形態は切り離せないものだったのだ。 そういう観点から改めて和讃を読むと、更に味わいが増す。
良し悪しの 文字をも知らぬ 人はみな
 まことの心 なりけるを
 善悪の字 しりがほは
 おおぞらごとの かたちなり
是非知らず 邪正もわかぬ この身なり
 小慈小悲も なけれども
 名利に人師を このむなり
この和讃には、575のリズムも入っている。
思想がリズムを通じて身体に入ってくる。

二、正信偈と和讃

対句という表現を通して、和讃と正信偈には共通点があることに気がつく。
正信偈は四句一まとまり、和讃も四句一首。
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

煩悩にまなこさへられて
 摂取の光明みざれども
 大悲ものうきことなくて
 つねにわが身をてらすなり
正信偈と和讃を比べると、正信偈の二句が和讃の四句になっている。
そうなると、正信偈=高僧和讃ということになるが、 正信偈と直接つながる和讃は源信讃ぐらいで他には見つからなかった。
もっと読み込まなければ。

三、正像末和讃と平家物語

二つの和讃がある。
一つは、1257年( 正嘉元年 85歳)草稿本「 正像末和讃」
罪業モトヨリ所有ナシ
 妄想顛倒ヨリオコル
 心性ミナモトキヨケレハ
 衆生スナハチ仏ナリ
もう一つは、1258年( 正嘉2年 86歳)顕智書写本「 正像末和讃」
罪業モトヨリカタチナシ
 妄想顛倒ノナセルナリ
 心性モトヨリキヨケレト
 コノ世ハマコトノヒトソナキ
聖典には顕智本の方を載せてある。
最初に両方を読んだとき、前の方は誰かが作ったものではないかと思った。
だから、最初に前の句を作られ( メモをされ)、そして、改訂( 訂正)されたことに興味を持った。
調べてみると、なんと、平家物語にこの和讃が引用されている。

平家物語「 清水寺炎上」の巻。延暦寺の衆徒が清水寺を焼く場面である。
『 ・・・ 爰に、無動寺法師に伯耆竪者乗円と云ふ学生大悪僧の有りけるが、 進み出でて僉議しけるは、「 罪業本より所有なし、妄想顛倒より起こる。 心性源清ければ、衆生即ち仏也。只本堂に火を懸けて焼けや者共」 と申しければ、衆徒等「 尤々」と申して火を燃し、御堂の四方に付けたりければ、煙、雲井はるかに立ち昇る。 感陽宮の異朝の煙を諍ふ。一時が程に回禄す。あさましと云ふも疎か也。』
この平家物語は延慶本であるが、 この和讃を親鸞聖人の和讃からの引用( これは逆かもしれないが)だとすれば、まさに、 この焼き討ちが、先の草稿本を改訂された理由であるとはっきりする。 この二つの和讃は同じ本覚思想を述べながら、結論は全く異なっている。
親鸞さんはこの和讃を悲嘆述懐和讃に載せている。 そして、本覚思想をどうのりこえるのかということが、この和讃からうかがうことができると思う。

先ほどの、和讃での自己の矛盾した姿を表現するという立場から言えば、 この二つの和讃の違いこそ、それを明確に表しているとわかる。草稿本の方は一見魅力的に感じる。 しかし、顕智本の方こそは親鸞さんらしい見事な和讃である。
私たちの愚かさ、罪悪性の自覚は仏の救いの根源であり、 救いはその愚かで罪を持ったものこそ目当てであるということ。 この二つは切り離すことができない。

    仏暦二五五七年八月

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