シュレーディンガー 『わが世界観(自伝)』

 量子力学の波動方程式を見い出した物理学者シュレーディンガーが、自伝の中でヴェーダンタの世界像をわかりやすく述べています。仏教は比喩を多様に用いますが、それは、私たちが比喩の中に生きているからです。このシュレーディンガーの比喩もまた素晴らしい。彼の思考の後をたどると、同じ体験ができるのか、どうか試してみてください。
 アルプスの山岳地帯における、とある道端のベンチに君が座っていると仮定しよう。君のまわりに一面に草の茂った斜面があり、あちらこちらに突き出た岩がいくつも見えている。谷のむこう側の、ごろた石で覆われた斜面には、榛(はしばみ)の木の藪が低く茂っている。木々が険しい谷の両側をはいあがり、木のとだえた牧草地の境界線にまで達している。そして君と向かいあって、深遠の幽谷からそそり立っているのは、万年雪をいただいた高く力強い山頂である。そのなめらかな雪原と鋭く切り立った岩山の頂きは、この瞬間に落日の最後の光線によって、このうえもなく淡いバラ色に彩られている。ものみなすべてが、明るく淡い透き通るような空の青さを背景に、不思議なくらい新鮮である。
 君が見とれているものはすべて――われわれの通常のものの見方によれば――君が存在する以前から、少しの変化はあったものの、幾千年もの間ずっと変わることなくそこにあった。しばらくのちに――それはそう長い間ではない――君はもはや存在しなくなるであろう。それでもその林や岩や青空は、君がいなくなったのちも、幾千年も変わることなくそこに存在し続けることであろう。
 かくも突然に無から君を呼び覚まし、君には何の関係もないこの風景を、ほんのしばらくの間君に楽しむようにさせたものは、いったい何なのであろうか。考えてみれば、君の存在にかかわる状況はすべて、およそ岩の存在ほどにも古いものである。幾千年もの間、男たちは奮闘し、傷つき、子をもうけ、育んできた。そして、女たちは苦痛に耐えて子を産んできた。おそらく百年前にも誰かがこの場所に座り、君と同様に敬虔な、そしてもの悲しい気持ちを心に秘めて、暮れなずむ万年雪の山頂を眺めていたことだろう。君と同様に彼もまた父から生まれ、母から産まれた。彼もまた君と同じ苦痛と束の間の喜びとを感じた。はたして彼は、君とは違う誰か他の者であったのだろうか。彼は君自身、すなわち君の自我ではなかったのか。君のその自我とはいったいなんなのであろうか。君が、すなわち誰か他の者ではなくまさに君が、この世に生を受けるために、いったいどんな条件を課す必要があったというのか。はたしてこの「 誰か他の者」とは、明瞭な科学的な意味をもったものなのであろうか。いま君の母親である彼女が、父でない誰か他の者と夫婦生活をし、彼によって息子を得、君の父親が同様のことをもししていたとしたら、いったい君は生まれていたろうか。それとも君は、君の父親のなかで、あるいは父親のそのまた父親のなかで生きていたということになるのか……すでに幾千年もの昔から。たとえそうであったとしても、なぜ君は君の兄ではなく、君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないのか。もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君にこの違い――君と誰か他の者との違い――をかたくなに見いだそうとさせているのであろうか。・・・
 君が君自身のものと言っている認識や感覚や意思からなるこの統一体[=君自身]が、さして遠い過去ではない特定のある瞬間に、無から降って湧いたなどということはありえないのである。この認識や感覚や意思は本質的に永遠かつ不変であり、すべての人間に、否、感覚をもつすべての存在[=生命体]において、数量的にはたった一つのものなのである。
 どうでしょうか。シュレーディンガーが感じた不思議な感覚を同じように体験できたでしょうか。個としての私(=我)が見事に否定されていることに気がつきます。
 自分と他人は心の奥底、阿頼耶識でつながっています。そしてDNAを通してみると、自分は人類の歴史そのものといえます。個性などといって、私と他のものの違いをいつも意識し、ほんの少しの差異を際立たせようとあくせく生きるような生活のなんとちっぽけなことでしょうか。

 次の問題を考えてみてください。
(一)誰も知らない森の奥深くで、大きな木が朽ち果ててゆっくりと倒れています。その音は聞こえるのでしょうか?(聞こえる)
(二)百億光年の遠くにある星雲を今見ています。その星雲はたった今存在しているのでしょうか?(今存在している)
(三)すべての他人が自分であります。なぜなら自分は世界に他ならないからです。そう考えた時、世界はどう変わるのでしょうか?


     二〇〇七、六
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