念仏はどのように行うのですか?
「後世物語聞書」にみる念仏の方法
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなわち無碍光如来の名を称するなり。
しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。
顕浄土真実行文類
私が念仏をするようになったのは、恥ずかしながら最近のことです。それまでは、信心だけで足りると思っていました。念仏を呪文のように感じて、身体が拒否してきたからです。さらに、御恩報謝の念仏は、この多忙な日常ではなかなか出てきませんでした。
でも、念仏がなければ真宗ではないと思っていました。また、ご縁は念仏を口ずさむように仕向けていました。さらに、身体を通した念仏の功徳があるのではないかと感じていました。
でも、何時も念仏を称えることは簡単ではありませんでした。まず、日々の忙しい生活の中では、直ぐに忘れてしまいます。習慣化するにはかなりの努力を要しました。人前で称えることの恥ずかしさもありました。車の中で大声で念仏をしてみたり、歩きながら称えてみたり、食事の時にと、いろいろあがいてみました。
そして、念仏を称える時間が長くなってくると、その間に様々な疑問が浮かんできたのです。そもそも、身体を通さないと信心は意味を持ちません。身体を通した念仏の意味が気になってきたのです。
「 後世物語聞書」には、念仏をしていて浮かんでくる疑問に対して、丁寧な答えが書かれています。そして、それが念仏の方法を示しています。
でも、これを読む前にまず念仏をしてみましょう。どんな称え方でもかまいませんので、声に出してみましょう。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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( 一)念仏をしているけれど、本当に往生できると思えないのはどうしたらいいのですか?
( 二)念仏は、劣った人のための修行なのですか?
( 三)念仏していても、三心( 至誠心・深心・回向発願心)を知らないでは往生できないと言われましたが?
( 四)念仏している時に、妄念が湧いてきます。これでは本当の念仏ではないと思って、心をしずめようとするけれどできません。どうしたらいいのですか?
( 五)念仏をすれば、光に照らされて心が優しくなると聞きましたが、念仏しても煩悩が少しも消えません。どうしてなのですか?
( 六)いつも、愛欲が起こったり、はらを立てながらの生活をしています。そんな心で念仏しても良いのでしょうか?
( 七)三心のポイントをずばり教えてください。
( 八)念仏すれば、三心は自然に備わってくるのですか?
( 九)名号を称える時に、常に三心を思っていなければならないのですか?
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これらの疑問に、東山の老師はどのように答えておられるのでしょうか。
( 一)念仏をしているけれど、本当に往生できると思えないのはどうしたらいいのですか?
師答へていはく、念仏往生はもとより破戒無智のもののためなり。もし智慧もひろく戒をもまつたくたもつ身ならば、いづれの教法なりとも修行して、生死をはなれ菩提を得べきなり。それがわが身にあたはねばこそ、いま念仏して往生をばねがへ。
そう思う自分であるからこそ念仏するしかないのです。念仏は、現代社会から見れば何の役にも立たない行です。でも、役に立つことだけを価値としている私たちにとって、そういう価値を捨てることは、自我を捨てて新しい自己を創りだす方法なのです。
( 二)念仏は、劣った人のための修行なのですか?
師答へていはく、たとひかれはふかくこれはあさく、かれはいみじくこれはいやしくとも、わが身の分にしたがひて流転の苦をまぬかれて、不退の位を得ては、さてこそあらめ。
ふかきあさきを論じてなににかはせん。いはんや、かのいみじきひとびとのめでたき教法をさとりて仏に成るといふも、このあさましき身の念仏して往生すといふも、しばらくいりかどはまちまちなれども、おちつくところはひとつなり。
善導ののたまはく、「 八万四千の門[あり]。門々不同にしてまた別なるにあらず。別々の門はかへりておなじ」( 法事讃・下)といへり。しかればすなはち、みなこれおなじく釈迦一仏の説な れば、いづれを勝れり、いづれを劣れりといふべからず。
あやまりて『 法華』の諸教に勝れたりといふは、五逆の達多、八歳の竜女が仏に成ると説くゆゑなり。
この念仏もまたしかなり。諸教にきらはれ、諸仏にすてらるる悪人・女人、すみやかに浄土に往生して迷ひをひるがへし、さとりをひらくは、いはばまことにこれこそ諸教に勝れたりともいひつべけれ。
まさに知るべし、震旦(中国)の曇鸞・道綽すら、なほ利智精進にたへざる身なればとて、顕密の法をなげすてて浄土をねがひ、日本の恵心( 源信)・永観も、なほ愚鈍懈怠の身なればとて、事理の業因をすてて願力の念仏に帰したまひき。
今時、この方々より智慧も深く戒行も徹底している人があるというなら、その人はどの法門にでも入って生死( まよい)を解脱なさればよろしいのです。
皆、それぞれに縁あって心が向くことでありますから、善いの悪いのと他人のことを論じていても無意味です。何よりもただ自分自身の行くべき道は何であるのかをよくよく考えるべきであります。
釈尊の教えに優れているとか劣っているとかは言えません。入り口は違うけれど目標は同じです。これらのお経が勝れているのは、どのような人であってもさとりをひらくことができると述べているからです。中国や日本の優れた善智識も、自らを愚か者で怠け者であると、念仏を選んでおられます。
全て、今までの縁によってあなたの心が決まってくるのですから、この人は優れているとか劣っているとかを問題にしてはいけません。ただ自分自身を省みて、自分で選び取る他はないのです。
( 三)念仏していても、三心( 至誠心・深心・回向発願心)を知らないでは往生できないと言われましたが?
師のいはく、まことにしかなり。ただし故法然聖人の仰せごとありしは、
「 三心をしれりとも念仏せずはその詮なし、たとひ三心をしらずとも念仏だに申さば、そらに三心は具足して極楽には生ずべし」
と仰せられしを、まさしくうけたまはりしこと、このごろこころえあはすれば、まことにさもとおぼえたるなり。ただしおのおの存ぜられんところのここちをあらはしたまへ。それをききて三心にあたりあたらぬよしを分別せん。
( 四)念仏している時に、妄想・妄念が湧いてきます。これでは本当の念仏ではないと思って、心をしずめようとするけれどできません。どうしたらいいのですか?
師は言われました。「 その心持ちがそのまま自力の発想に搦め取られて他力を知らぬすがたであり、既に至誠心が欠けてしまっているのです。今程の『 口に念仏を称えるけれども心に妄念が止まらないのは、虚仮の念仏です。心を澄まして称えねばなりません』と勧めたその人こそ、そのまま至誠心の欠けた虚仮の念仏者の張本人であったということがわかります。
自分のこころの妄念を止めて、口に名号を称えて内外相応するのを、虚仮をはなれた至誠心の念仏であると申す人があるとすればその人こそ、この至誠心を知らない人です。凡夫が真実になって行ずる念仏などということは、それこそ自力そのものの考え方であって弥陀の本願に反逆する精神であります。
凡夫の真実にして行ずる念仏は、ひとへに自力にして弥陀の本願にたがへるこころなり。すでにみづからそのこころをきよむといふならば、聖道門のこころなり、浄土門のこころにあらず、難行道のこころにして易行道のこころにあらず。
これをこころうべきやうは、いまの凡夫みづから煩悩を断ずることかたければ、妄念またとどめがたし。しかるを弥陀仏、これをかがみて( 見通して)、かねてかかる衆生のために、他力本願をたて、名号の不思議にて衆生の罪を除かんと誓ひたまへり。さればこそ他力ともなづけたれ。
このことわりをこころえつれば、わがこころにてものうるさく妄念・妄想をとどめんともたしなまず、しづめがたきあしきこころ、乱れ散るこころをしづめんともたしなまず、こらしがたき観念・観法をこらさんともはげまず、ただ仏の名願を念ずれば、本願かぎりあるゆゑに( のお約束の通りに)、貪瞋痴の煩悩をたたへたる身なれども、かならず往生すと信じたればこそ、こころやすけれ。
さればこそ易行道とはなづけたれ。もし身をいましめ、こころをととのへて修すべきならば、なんぞ行住坐臥を論ぜず、時処諸縁をきらはざれとすすめんや。またもしみづから身をととのへ、こころをすましおほせてつとめば、かならずしも仏力をたのまずとも生死をはなれん。
心をしずめて念仏することは、自力の念仏です。煩悩を断ずることができないからこそ、他力本願をたてられ名号を与えてくださったのです。だから、妄念・妄想が起こっても、ただ名号を称するのみです。
もし、妄念・妄想をしずめることができるならば、行住坐臥、何時でも念仏を称えよとはお勧めにはならなかったはずです。また、それができれば、仏力を頼まなくてもさとりを得ることができるはずです。
( 五)念仏をすれば、光に照らされて心が優しくなると聞きましたが、念仏しても煩悩が少しも消えません。どうしてなのですか?また、どうすればいいのですか?
師のいはく、このことひとごとになげく心根なり。まことに迷へるこころなり。これなんぞ浄土に生ぜんといふ道ならんや。
すべて罪滅すといふは、最後の一念( 時)にこそ身をすててかの土に往生するをいふなり。さればこそ浄土宗とは名づけたれ。もしこの身において罪消えば、さとりひらけなん。さとりひらけば、いはゆる聖道門の真言・仏心・天台・華厳等の断惑証理門( 煩悩の惑いを断ち真理をさとる教え)のこころなるべし。
善導の御釈によりてこれをこころうるに、信心にふたつの釈あり。ひとつには、「 ふかく自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、煩悩具足し、善根薄少にして、つねに三界に流転して、曠劫よりこのかた出離の縁なしと信知すべし」とすすめて、
つぎに、「 弥陀の誓願の深重なるをもつて、かかる衆生をみ ちびきたまふと信知して、一念も疑ふこころなかれ」とすすめたまへり。
このこころを得つれば、わがこころのわろきにつけても、弥陀の大悲のちかひこそ、あはれにめでたくたのもしけれと仰ぐべきなり。
もとよりわが力にてまゐらばこそ、わがこころのわろからんによりて、疑ふおもひをおこさめ。ひとへに仏の御力にてすくひたまへば、なんの疑かあらんとこころうるを深心( 信心)といふなり。よくよくこころうべし。
煩悩が湧き出るから、優しい気持ちになれないから、自分の心が悪いからこそ念仏をするということですね。でも、自分の心は煩悩だらけと考えられる人は、ちゃんと念仏に救われていますよ。そういう人のための行なんですから。
( 六)いつも、愛欲が起こったり、はらを立てながらの生活をしています。そんな心で念仏しても良いのでしょうか?
師のいはく、これはさきの信心をいまだこころえず。かるがゆゑに、おもひ わづらひてねがふこころもゆるになるといふは、回向発願心のかけたるなり。
善導の御こころによるに、
「 釈迦のをしへにしたがひ、弥陀の願力をたのみなば、愛欲・瞋恚( 怒り・憎しみ、恨み)のおこりまじはるといふとも、さらにかへりみることなかれ」 ( 散善義・意)
といへり。まことに本願の白道、あに愛欲のなみにけがされんや。
他力の功徳、むしろ瞋恚のほむらに焼くべけんや。たとひ欲もおこりはらもたつとも、しづめがたくしのびがたくは、ただ仏たすけたまへとおもへば、かならず弥陀の大慈悲にてたすけたまふこと、本願力なるゆゑに摂取決定なり。摂取決定なるがゆゑに往生決定なりとおもひさだめて、いかなるひと来りていひさまたぐとも、すこしもかはらざるこころを金剛心といふ。しかるゆゑは如来に摂取せられたてまつればなり。これを回向発願心といふなり。これをよくよくこころうべし。
( 七)念仏で最も大切だといわれる「 三心」のポイントを、ずばり教えてください。
師のいはく、まことにしかるべし。まづ一心一向なる、これ至誠心の大意なり。わが身の分をはからひて、自力をすてて他力につくこころのただひとすぢなるを真実心といふなり。他力をたのまぬこころを虚仮のこころといふなり。
つぎに他力をたのみたるこころのふかくなりて、疑なきを信心の本意とす。いはゆる弥陀の本願は、すべてもとより罪悪の凡夫のためにして、聖人・賢人のためにあらずとこころえつれば、わが身のわろきにつけても、さらに疑ふおもひのなきを信心といふなり。
つぎに本願他力の真実なるに入りぬる身なれば、往生決定なりとおもひさだめてねがひゐたるこころを回向発願心といふなり。
( 八)念仏すれば、「 三心」は自然に備わってくるのですか?
師答へていはく、余行をすてて念仏をするは、阿弥陀仏をたのむこころのひとすぢなるゆゑなり。これ至誠心なり。
名号をとなふるは、往生をねがふこころのおこるゆゑなり。これ回向発願心なり。
これらほどのこころえは、いかなるものも念仏して極楽に往生せんとおもふほどのひとは具したるゆゑに、無智のものも念仏だにすれば、三心具足して往生するなり。
ただ詮ずるところは、煩悩具足の凡夫なれば、はじめてこころのあしともよしとも沙汰すべからず。ひとすぢに弥陀をたのみたてまつりて疑はず、往生を決定とねがうて申す念仏は、すなはち三心具足の行者とするなり。
「 しらねどもとなふれば自然に具せらるる」
と聖人( 源空)の仰せごとありしは、このいはれのありけるゆゑなり。
( 九)名号を称える時に、常に「 三心」を思っていなければならなのですか?
師のいはく、その義またあるべからず。
ひとたびこころえつるのちには、ただ南無阿弥陀仏ととなふるばかりなり。
三心すなはち称名の声にあらはれぬるのちには、三心の義をこころの底にもとむべからず。
洪水の時、筏に命を救われたからといって、いつも筏を担いでいる必要はありません。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
仏暦二五五二年 九月
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