学仏大悲心

四弘誓願

      仏典より  小松 清 作曲

   衆生無辺誓願度(しゅじょう むへん せいがん ど)
   煩悩無数誓願断(ぼんのう むしゅ せいがん だん)
   法門無尽誓願学(ほうもん むじん せいがん がく)
   仏道無上誓願成(ぶつどう むじょう せいがん じょう)

    衆生は無辺であるが誓って救わん
    煩悩は無数であるが誓って断ぜん
    法門は無尽であるが誓って学ばん
    仏道は無上であるが誓って成さん

 この曲を聞くと、涙が出てきます。人間の悲しさと、仏の慈悲を同時に感じるからです。 無辺であり無数であり無尽であるものを、人間がどうして達成できるのでしょうか。 そして、この瞬間にも生じている人間の悲劇、どうしょうもできない人間の愚かさ。 この悲しさをどうしたらいいのでしょうか。如何ともできないこの悲しさ。
 私にはこの誓願は仏の誓願と聞こえます。そして、この誓願が仏そのものだと感じます。
 仏は、人間の悲しみが願いとなったものではないでしょうか。

仏の大慈悲

 法隆寺の玉虫の厨子には仏典(ジャータカ)から題材を得た二つの絵が描かれています。
一つは『 捨身飼虎図』
 飢えた親虎が子どもを食べようとするのを見た薩捶王子が、我が身を与えるため衣服を脱ぎ、崖の上から虚空に身を翻らせて墜死し、餓虎の餌食となる光景が描かれています。
左側には、『 施身聞偈図』
 こちらは雪山童子の話
 雪山(ヒマラヤ)で修行していた雪山童子が、羅刹(鬼)が「 諸行無常、是生滅法(しょぎょうはむじょう、これしょうめつのほう)」と称えるのを聞き、この句の後半が必ずあるはずと、その羅刹に聞かせてくれるよう頼みます。
 すると、羅刹は、「 自分は飢えているから、汝を食わせてくれたら教えてやろう」と言います。童子は承諾をし、後半の「 生滅滅已、寂滅為楽(しょうめつすでにやみて、じゃくめつらくをなす)」を教えてもらいます。そして、その句の意味を深く味わい、岩にその句を書き込み、約束どおり我が身を与えようと崖の上から身を投じると、そのとたん、羅刹は帝釈天の姿となり、空中で修行者を抱きとめてくれたというお話です。

涅槃経…仏の慈悲・仏性について
 教行信証で一番長い引用は、信文類の中にあります。親鸞聖人ご自身の叫びのような煩悩の述懐の後、治し難い病のものについての説明で、涅槃経のアジャセ王の物語が取り上げられている所です。
 それは、アジャセが自らが犯した罪を後悔し苦しんでいる場面で、アジャセに対する釈尊の言葉が述べられています。その時、釈尊はご病気であり、死を目前にしていました。でも、アジャセこそが救われなければならない人であると自ら病を押して出かけるのです。そして、アジャセに対して、あなたに罪があるとしたら私にも罪があると語られます。釈尊の話を聞いて、あれほど地獄に落ちるのを恐れていたアジャセが自ら、   
「 もし、私が衆生の為に悪心を破することができるのなら、私は無間地獄にあって、あらゆる人々の為に苦悩を受けることになっても、それを苦しみとはしない。」
 と、願い誓うのです。

大仏は自ら崩れ落ちた

 アフガニスタンのバーミアンにあった大仏は壊されたのではありません。仏は、世界を悲しみ自ら崩れ落ちたのです。
 世界の人々の痛みを自らの痛みとし、世界の苦しみを自らの苦しみとする人が仏です。苦しんでいる人があまりにも多いのを悲しんで、自ら崩れ落ちたのです。
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