映画 「おくりびと」を見て

 僧侶として一度は見ておこうと思っていた。近くに映画館がないので、遠くの町へ行ったが、夜の8時40分から見て、自宅に帰ってきた時にはナビが次の日を告げていた。思ったよりきれいな映画だった。死者の役者が生きているせいもあるが、本木雅弘演じる主人公の納棺の所作が実に美しいのである。死者を大事にしようという想いがまず伝わってきた。

 楽団のチェロ奏者であった主人公は、千数百万円もするチェロをローンで購入する。しかし、楽団は解散。新しい楽団への就職も己の才能を自覚するがゆえにあきらめ、チェロを処分して妻と一緒に生まれ故郷山形県庄内平野に帰る。そこで再就職したのが、納棺師の仕事。普通は葬儀屋が行うが、葬儀屋から委託されて遺体を洗い、着替えをさせて化粧をし、納棺するという仕事だ。
 主人公も躊躇する。妻にはうそをつく。一番最初の仕事が独居老人の納棺だった。長いことそのままにしておかれた老婆の痛みはひどく、匂いとその様態に吐きながら納棺する。帰ってから、妻にむしゃぶりつく主人公の姿を通して、直接見せないけれど、生と死の対比を表していた。

 納棺の所作についてだが、社員3名の会社の事務員が、なぜここに勤めたのかという問いに、主人公の母が亡くなったとき、社長が納棺するのを見ていて、この人に私の納棺をやってもらいたいと思ったからという返事が全てを示している。
 そこには死者の尊厳を大切にしていこうという気持ちが現れている。死者の身体を見せずに拭いて着替えをし、遺影を見ながら死者の顔を和らげ、髭を剃ったり、化粧をする。5分の遅刻をとがめた夫に、納棺が終わった後に、「 あいつ、今までで一番きれいでした。」と言わせた。きっと働きづめのお母さんだったのだろう。幼い娘を残して。

 そして、もう一つ感じたことが、死者は生きているということだ。確かにしゃべらないし動かない。しかし、その向こうにいる有縁の人々を通じて関係性が変化している。死者と家族の関係が刻々と変わっているのだ。まるで成長しているみたいに。生者と死者が合間見えているようなのだ。死者の生き方だけではない。生者たちの生き方も縁起(関係性)として立ち現れてくる。
 美人だと思ったらニューハーフだった自殺した青年。化粧は男様と女様があります。どちらになさいますか。あの子の夢だった女様で化粧してくださいとお母さん。コミカルに演じられているのだが、最後に父親が、生きている間は顔を見ればいつも喧嘩ばかりしていた。初めて息子の顔をじっくりと見た。俺の子どもだと思った、と泣き崩れたのには泣けた。
 
 きっとおめかけさんと奥さんだろう。そして娘さんもいるのか。彼女らがつけるキスマークは、おじいちゃんのみごとな大往生を示していた。様々な死と死者を通して、生きている人たちの心と関係が語られる。それは、死が日常的であり、その中で死者と生者との関係も育っていっているということを示している。
 
 納棺師の仕事をけがらわしいと嫌い実家に帰っていった妻のことや、子どもの頃に女性と家を出て行った父親の死を通して納棺の仕事の誇りを示し、また死の意味もそれとなく示している。
 最後に、たった一人でお客さんが喜ぶ限り続けると言っていた風呂屋のおばあさんが、薪を運んでいるときに亡くなった。常連客であった火葬場の管理人が棺おけの蓋を閉めながら「 いつかまた会おうの。」と語りかける。そして死者の息子に、私は門番だと語る場面がある。死は終わりではない。死は新たな門をくぐり抜けるだけであって、向こうにまた新たな生がある。だから私はその門番なのだと。
 庄内平野の美しい冬と春の景色の中で織りなされる生の物語であった。

       二〇〇八.九
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