浄土の思想

自分の國から菩薩の仏国土へ、そして浄土へ

 親鸞さんは聖徳太子を和国の教主と大変尊敬されていました。若い時には、六角堂に籠って聖徳太子の夢を見ています。では、聖徳太子の書かれたものは読まれていたのでしょうか。そんな疑問が浮かんできて、四十年前の学生時代に買った本を引っ張り出してきました。当時は全く歯が立ちませんでしたが、なぜか読めます。故中村元先生の現代語訳です。
 そこに前から知りたかった、浄土についての詳しい解説( 浄土はなぜ仏教の中に出てきたのか)が書いてあるではありませんか。それは維摩経義疏でした。

維摩経義疏の「 仏の国土」( 中村元訳)

「 みなすでに無上のさとりに向かう心をおこして、仏国土の清浄を体得することを聞こうと願っています。願わくはもろもろの菩薩の浄土の行を説いてください。」
という宝積菩薩の問いに、釈迦如来は答えられます。
「 宝積よ、衆生の類がすなわち菩薩の仏国土である。なぜなら、菩薩は導くべき衆生のいかんに従っていずれかの仏国土を取り、おさえるべき衆生のいかんに従っていずれかの仏国土を取る。( 菩薩は)もろもろの衆生がどの國によって仏の智慧に入るべきかに従っていずれかの仏国土を取り、もろもろの衆生がどの國によって菩薩の能力を起こすべきかに従っていずれかの仏国土を取る。」  【 維摩経
 これを読むと、次から次へと疑問が出てきます。
( 一)「 仏国土=衆生」とはどういうことか?
( 二)「 菩薩の仏国土」とはどういう意味か?
( 三)「 衆生によって菩薩が仏国土を取る」とは?
( 四)仏国土は、仏の智慧に入り、菩薩の能力を起こすべき処なのか?

 この問いに聖徳太子は答えられます。
「 そもそも國の領域( 國土)を論ずると、浄土と穢土との区別はあるけれども、これは、そこに住む衆生がかって善を行ったか、悪を行ったかによって( 業の力によって)、感じて、そこに生まれたのである。ゆえに衆生の方では必ず「 自分の國」と称するものがあるというきまりがある。」
 この衆生の「 自分の國」とは何でしょうか?

自分の國を仏国土にする

 島田幸昭師はこのことを次のように説明しています。

「 私がいう世界は、そこにある客観的な事実です。たとえば私を中心とすれば、そこに父があり母があり、兄があり妹がある。父を中心とすれば、世界がガラッと変わる。私が母と呼ぶ人は妻となり、私は八男となり、兄も妹も皆息子や娘となる。あり方の関係が変わるだけではない。言葉使いから、生活態度から、すべてが変わる。十人おれば十の世界があり、千人おれば千の世界がある。
 私を中心とする私の世界は、私が王で、他の人は皆私の國の住民である。父を中心とする世界は、父が王で、他はすべて父の國の住民である。
 私の國が清らかであれば、王である私の存在は安らかであり、その行動も無碍である。もし私の國が濁っておれば、私の存在は常におびやかされていて、私の行動は絶えず妨げられ、その道はいばらである。
 その人の世界が清らかであるか、濁っているかは、その人とその人を取りまく人々との関係によるのであるが、それは、その人が、周囲の人の胸にどう映っているかというところに現われている。」( 仏教開眼四十八願)
 この一人一人を王とし、その人を取りまく「 関係世界」を「 國」と名付けます。( 國とは、矛をもって土地を囲うこと、すなわち領土を意味します。日本国の国とは違うという意味を込めて違う漢字を使います。)
 私たち一人一人に國土があり、その國土を菩薩や仏が取った時に、仏国土になるということです。取るとは摂取( 仏が衆生をおさめとり、むかえとって救うこと)の意味です。
 そして、私たち一人ひとりに國があることを自覚すると、その王( 主人公)が自分であることに気がつきます。その時、この國を何とかしなければ、その責任は自分にあるという自覚に立つと國が国( 仏国土)になります。
 ところが、衆生はそれに気がつかないので、教化する側の菩薩はそれを摂取しなければならないわけです。

仏国土の浄土と穢土

 そして、聖徳太子は、「 その仏国土に浄土と穢土があるのはおかしい。浄土だけを仏国土というのではないか?」と問い、それに答えています。

「 如来にはもともと自分の国土というものはない。ただ教化されることになる衆生の類を取り上げて、彼らのことを仏国土と呼んでいる。だから、仏国土は浄と穢とを通じてある。如来はいかなる者どもに対しても同じように教化を行う。ゆえに浄と穢とに通じてすべての衆生のことを仏国土としているのである。」と。
 つまり、仏が教化の対象とする衆生を仏国土ととらえ、したがってその仏国土は浄と穢があるということです。私たちの側からいえば、自分の國は穢であるが、仏の側からいえば、それは教化の対象として仏国土であるということでしょう。( 維摩経はさらに、國もよく見ると仏の浄土であると示しています。)
 そして、もし、仏や菩薩が自分の国が欲しければ、衆生の世界のどこかを取らなければならぬ。たとえば家を建てようとするのに、空地ならば意のままに建てることができるが、空中には建てることができぬようなものであると述べています。  
「 菩薩が取ったままの世界は穢土である。それを仏土というのは、衆生を救い、この世を清めるために、菩薩が責任を持ってくださったという意味で、仏国土というのである。」島田幸昭師
 そうすると、法蔵菩薩は仏国土として摂取したこの私たちの國( 穢土)を浄める行として、四十八願を建てられたことになります。

「 ( 無量寿経に)『 清浄に無量の妙土を荘厳すべし』とあったのは、一人の衆生に一つの國がありますから、数限りない衆生の一つ一つの國をりっぱに成就して行くことです。阿弥陀仏の国は衆生によって成り立っていますから、その中に住んでいる衆生の生活がりっぱになり、一人ひとりの國がりっぱにならねば、阿弥陀の浄土はりっぱになりません。」島田幸昭師

仏国土=縁起の思想

 一人で修業し一人でさとるのでしたら、浄土は必要ありません。菩薩は一人でさとるのではなく、救うべき人とともにさとるわけです。それが大乗の定義ですから、菩薩にとっては救うべきは個々の人々ではなく、自己をも含めたその國々ということになるわけです。そして、教化の対象はその人の國土となります。
 これは、縁起の思想からも導き出されます。縁起は一人の人が個人としてあるのではなく、様々な関係性の中で生まれてくるものだということを示しているからです。この関係性はまさに國といってもいいものでしょう。

 このことから大乗仏教の発展の中で、個人としての人から、社会的な存在としての人間へと、とらえる見方が進化してきたことが伺えます。そして、教化の対象も個人を変えることから、関係性を変えることへと変わってきます。それは、仏国土を清浄( 浄土)にするという表現の中に現われています。
 では、どうしたらその仏国土を浄土にすることができるのでしょうか、維摩経( 義疏)では次のように説明します。

『 直き心』がすなわち菩薩の浄土である。菩薩が仏となった時に、諂( へつら)わない衆生がやってきてその国に生まれるであろう。」
以下、『 深く道を求める心…徳を具えている衆生』、『 さとりを求める心…大乗におもむいた衆生』、『 情け深さ…自分のものを全て捨て去った衆生』、『 いましめ』、『 たえしのぶこと』、『 つとめはげむこと』、『 おちつき』、『 智慧…必ずさとりを得るはずの衆生』、『 慈しみ・悲れみ・喜び・平らかな心』、『 情け深さ・親愛のことば・ためになる行い・協力』、『 方便』、『 三十七のさとりの手段』、『 己が善根を他人に回向する心』、『 仏法を聞くのにさわりのある八つの難所を除くのを説く』、『 自らいましめを守って他人の欠点をそしらないこと』、『 十善がすなわち菩薩の浄土である。菩薩が仏となったときには、人々は長生きして、大いなる富あり、清らかな行いをなし、真実にかなったことばを語り、常にやさしいことばを語り、仲間がばらばらになることなく、争いを善く和らげ、必ずためになることを言い、嫉( ねた)まず、いからず、正しい見解ある衆生がやって来てその国に生まれる。』
と、仏国土を浄土にする=衆生が浄土に生まれる因を示しています。そして、真っ先に「 直き心」を取り上げています。さらに菩提心、智慧、四無量心、度衆生心、方便…と続きます。
 ただ、ここではあくまで菩薩の行を示していて、衆生の方はその行を因としてその国に生まれるとなっていますから、あくまで主人公は菩薩であり、菩薩の仏国土です。

 菩薩にとっては、仏国土( =その人を取りまく関係性)を清浄にすることが教化になります。そのことは、社会の中で生きている自分の自覚であり、社会へのまなざしがあります。ちなみに菩薩とはそういう社会を自覚し自分の國を浄土にしていこうと願っている人のことを言います。
 そうすると、なぜ「 仏国土」という概念が考えられてきたのかもわかってきます。仏国土とは僧迦( さんが)をモデルとするものであり、同朋をモデルとするものです。( 南無帰依僧は坊さんに帰依することではなく、僧迦=浄土に帰依することです。)
 さらに、その仏国土を浄土にする意味も分かってきます。浄土の荘厳とは、直き心や菩提心などです。そして、浄土への道は、いくつかの行があります。浄土の荘厳の法によって、そこに生まれた人とともに菩薩が自身の仏国土を浄土にしていくことが、さとりへの道なのです。

 ここから阿弥陀仏の浄土へと論を進める前に、大乗の菩薩道について考えてみたいと思います。

大乗仏教の菩薩道=教化の道

 大乗仏教は他への教化を、その一つの行としています。これは、ちょうど教育に例えることができます。私は長年教育の仕事にかかわってきました。子どもたちと関わりながら、いつも大乗仏教と教育の営みが良く似ていることに気がついていました。いくつかあげてみます。

( 一)教師は教えながら学び、学びながら教える。また、学び教えるのは教師だけでなく子どもも同じである。これは、修行と教化、教えるものと教えられるものが一体であることにあたる。
( 二)教師は子どもたちに少しでも成長してもらいたいと願っている。そのために自分自身も成長しなくてはならない。
( 三)その時に、子どもを自分よりも劣ったもの、教え込むものとして対してはならない。子どもは一つの人格を持った教師と対等な人間である。また、教えるという立場に立つと驕った考えになってしまう。( このことについて、故祖父江文宏師は子どものことを敬意をこめて「 小さい人」と呼ばれていることを記しておきます。私は「 子供」ではなく「 子ども」と書きます。)
( 四)子どもたちにまず自分を受け入れてもらうことから始めなければならないし、子どもを受け入れられなければならない。
( 五)子どもの現実( トラブル)は社会の現実であり、子ども個人だけを対象にしていては教育の営みはできない。
( 六)それは、子どもも自分もともに成長する相互的な関係であり、子どもから学ぶという心が必要である。
( 七)だから、自利の行であり、利他の行である( ニ利双行)。
( 八)子どもたちの話を十分に聞き、さらに私はこう思うと述べるところから出発し、子どもたちの関係性を変えるところへと至る。
( 九)問題やトラブルがあった時、その子の性格を変えようとか、その子を良くしようと考えるのは縁起の思想に反している。教師が変えることができるのは、教師と子どもたちの関係であり、子どもたちどうしの関係を、子どもたちのちからを借りながら変えていくことである。
(十)指導するとは、命令することではない。子どもをその気にさせることである。それは、子どもの主体性を前提にしないと成就できない。
(十一)そのためには、教師に真心がないとできない。また、子どもたちはそれをすぐに見抜き、子どもたちにも真心が生まれる。
(十二)集団が個人を教育し、個人が集団を教育する。

 ざっと思いついたことを書いたので、重複することもあるかもしれません。子どもをその気にさせるということは、仏教でいうと、菩提心を起こさせることです。また、精神的な驚きの心を起こさせることを常に考えていなくてはなりません。
 迷いからさとりへと向かう道中の人を菩薩といいます。時々、菩薩のような尊敬できる子どもに出会います。たぶん、子どもも尊敬できる大人と出会って、あのようになりたいと思います。私たちはそれを「 夢を持つ」と言いますが、夢を持てるのは、子ども自身の中に自分を信じる心が生まれてくるからです。それを菩提心といいます。

 教師の仕事は、この菩提心を育てることに尽きると思います。では、菩提心はどうしたら育つのでしょうか。
 それは、学問と行と廻向です。業と行はどう違うかというと、学業を修することが修業( 学問を修める)で、修行はそれを身につけることです。やってみなければ自分のものにはならないのです。もちろん、この学問というのは、人生勉強を言います。生活と離れた学問は身につきません。
 廻向というのは、自らの行いを回して他に振り向けることを言います。つまり、私とあなたという自他の関係に目覚め、相手を育てることによって、相手から自分が育てられるというまさに自利利他の菩薩行なのです。
 そして、この中で、自己を知り、その自己が立っている浄土が自覚されるのです。

子どもの國=集団

 子どもには子どもの世界( 國)があります。その世界は彼がそれまで育ってきた様々なストーリーの中で彼の中に建てられてきたものです。そこには、苦しみ( 地獄・ガキ・畜生・修羅)があり、それを自覚することなく苦しんでいます。
 では、子どもたちにとって、各自に國があり、その中心に自分がいるということはどのように自覚されるのでしょうか。実は、この自覚に至るために仏国土があるのですが。
 私の経験上、子どもたちの自分に対する認識は二つあります。一つは自分が世界の中心であり、自己が肥大化する場合です。これは、周りについて( 他の子にも國があること)はほとんど認識していません。
 もう一つは、逆に自分に対する存在感が希薄な( 自己尊重感がない)場合です。世界の中心に私がいるとは到底思えない場合です。私はダメなんだといつも考えてしまいます。私なんかいなくても…と思ってしまいます。

 他者から認められたいという気持ちは、人間の根本の本能のように思えます。「 自分を認めてほしい」という気持ちは、子どもだけでなく全ての人にあります。この本能を逆手にとって子どもたちを苦しめるものがあります。
 認めてもらえないから・・・、認めてもらうために・・・と。
 このことをよく考えると、他者に認めてもらうことは自分自身( がどういう人間であるか)を決めることなのです。私は〜である。私は〜ができる。私はダメな人間。どうせ私は・・・と。
 こういった苦しみはどこから来るのでしょうか。私は、子どもたちにとって世界は自分の外にあり、自分はその世界の中で孤独に一人で生きていると感じているからのように思えます。子どもたちの「 私はここにいるよ。私を見て。私を認めて。」と叫んでいる声が聞こえてきます。

 子どもたちが大きく成長するときは、他者や社会から大きな影響を受け、意味ある他者と出会い、自分一人だけでなくその周りに連なる関係を見出した時です。
 それは、哲学的に言えば他者の認識であり、教育的に言えば集団の認識であり、仏教的に言えば仏国土の認識であると思います。
 自分の國が自分を中心とする関係性の世界であると感じたら、その世界は、全く違ったものに見えるはずです。自己否定から大きな肯定へと変化します。それは生まれ変わったような感覚です。大きなものに抱かれているような感じがしたと言っている人もいます。

 この仏国土の自覚に至るまでには、かなりの道のりを要します。それは、子どもの國土が汚れている場合に顕著です。
 子どもを取り巻く関係性がゆがんでいたり、ねじれていたり、人間として認めないものであったり、追い込むものであったりした場合、子どもたちの住むところが、地獄( 認められない)・餓鬼( やめられない)・畜生( 無知、言いなり)・修羅( 人に勝とう)という國になってしまいます。

菩薩の仏国土( 仏国土として取る)

 子どもの國の状態を認識し、その子の國を清浄にするには菩薩が必要です。それは何も教師である必要はありません。尊敬できる大人、友人、ペット、自然…などを菩薩と言います。菩薩が考えることは、子どもの國を清浄にすることだけです。
 これを教育的に言いかえると、周りの者が、子どもの関係性を、ケアする( いたわり合い、支え合い、学び合う)関係に組み替えるようにすることです。それは、存在として認められることであり、本人に生きる勇気を与えるものとなります。

 維摩経で「 菩薩の仏国土」を強調するわけは、ここにあるのではないかと思います。多くの菩薩が関われば子どもは救われるのです。そして、関係性は清浄( 互いを認め合うこと)になり、仏国土は浄土になります。
 もう一つは、子どもも含めた私たちが菩薩であるということです。仏国土を自覚した人が菩薩です。そして、菩薩の修行の場としての仏国土=浄土が意識されたときに、私たちの行動もまさに二利双行となるのです。

仏国土を浄土にする

 その場合、個人的な試みや個人的な力量を重視してしまうと、「 私の國」が「 私の」仏国土となり、自己中心的な仏国土( 穢土)となってしまいます。
 大乗仏教はあくまで菩薩道であり、「 私が」という利己的な心や、自分が中心であるということを否定します。
 そこで、この利己的な「 私が」を乗り越えるために浄土そのものが強調されてきます。「 菩薩の仏国土を浄土にする」から、「 浄土そのものの『 はたらき』が行者を仏にする」ことが前面に打ち出されてくるのです。

 以上のようなわけで、仏国土( 浄土)は架空のものでも、心の中にあるものでもありません。ましてや、別の世界に存在するものでもありません。この私たちの世界に実在していると言えます。

    仏暦二五五五年一二月

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