死に方プロデユース

  人間であることの悲しみと
        人間であることの喜び

1、蝉の話

虫+恵蛄《けいこ》春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや

semi.jpg(10791 byte) 蝉は夏に地上に出てきて夏に死ぬから春と秋を知らない。
だから今が夏であることも知らない。

今しか知らない人は、今も知らないということも示している。
確かにそうだと思う。
生きていることしか知らない人は、生きていること自体も知らないのかもしれない。

御門主が宗会のご教示で「Post-truth」=「ポスト真実」を取り上げておられた。
この言葉は、オクスフォード大学出版局が、昨年注目を集めた英単語、として選んだもの。
意味は、
「客観的な事実や真実が重視されず感情的な訴えが政治的に影響を与える状況」を意味する形容詞。

アメリカ大統領選だけでなく、この列島でも同様のことが行われている。
アメリカ大統領選では、マケドニアの青年たちが立ち上げたフェイクニュースが、トランプの支持者に対して出した場合が一番儲かる(一番見る人が多く、クリックをしてくれるので)ということで、過激なフェイクニュースを流した。
これはヒラリーやサンダース支持者に対しても行ったが、トランプの場合が一番多くの人が見てくれて、シェアをしたから集中的にトランプにしたらしい。 ちなみに広告収入は1クリック0.5円とすると100万カウントで50万円。
そこには、政治的な思惑はない。
これは、真実が何かがますますわからなくなることを示しているし、お金を儲けることが一番の真実とも言える。

仏教徒は「真実はある」と考える。
でも、私たち凡夫には真実は見えにくいと考える。
「蝉は春秋を識らず、その虫はあに朱陽の節を知らんや」
は、仏教徒の真実に対する態度を表明したものだ。
「真実はあるけど、私たちには何が真実かわからない。
だから、より広い世界を知ることが、自分の狭い世界を知ることになる」と。

2、感情と現実と理想

今年から自主運動教室で運動している。
身体を自覚するというのは気持ちがいい。
もう一つ、身体と心がつながっているという感覚もうれしい。
笑いが出てくるような運動だと、身体も楽しく動きだす。

人は感情で動く。
だから感情に訴えることは大事だが、人の感情はどこへ行くのかわからない。
人は利害で動く。
だから、利を説くことは大事だが、誰のための利なのか、何の利なのか考えないといけない。

学校にいた時に、感情を前提にしない学びはないと感じていた。
喜怒哀楽があってこそ学びが成立する。
だから、「嫌」という感情も肯定してきた。
そして、そういう感情がどうすれば学びにつながるのかいつも意識していた。

「人はパンのみで生きるにあらず」
しかし、理想を言うといつも言われた。
「わしら生きていかねばならないからな」
だから経済効果を持ち出したこともある。
でも、経済効果だけがすべての世界になってきている。

とすると、一体何を共通の感情にしたらいいのか
いや、何を本当のこととしたらいいのか

この疑問を尋ねた。
師は、こう話しだした。
 「人の道、私たちの根底に人としてのいたみやねがいがあり、
  そのいたみやねがいによって
  真実が真実たりうるのではないでしょうか。
  そして、
  私たちもその真実に願いを託すことができると思っています」

人としての根底の願いや痛みを聞き取ることは仏の願いでもある。
人間デアルコトノカナシミヲシリ
人間デアルコトノヨロコビヲシル
念仏コソワガイノチ
             をさ・はるみ

3、教え子の話

「デザインで社会を変える」ことを学ぶために、若い方に尋ねる旅を始めた。
彼は教え子だが、いろいろなことをプロデユースしているという。
二時間ほど聞きまくった。
実に面白かった。
終わって外に出たら、周りの景色が違って見えた。
まだ、聞きたいことがあったが、こちらの容量が小さいので次の機会に。
いくつか教えてもらった中ですぐに使えそうなことを書いておく。

それは、プロヂュースで一番大事なことは「目的から考える」こと。
私たちはあることをやろうとすると、スタートから始める。
でも、彼はスタートよりもゴールが大事だという。
例えば100万人集めることを目標にして、
そのためにはどうしたら良いのかと考えていくとスタートが決まる。

これは、私たちの人生においても同じで、最後を考えることが大事だという。
つまり、自分の死を考えるところから始めるのだ。
彼は自分のことを「死に方プロデューサーだ」と言っていた。
その具体的方法は、多岐にわたるが、環境の全て・人材も含めて
目的のために使うという発想だ。

それを聞いた時、私自身の人生をどうデザインするのかと考えた。
私の終着は死ではなくその先の浄土である。
そして、目的から考えることは浄土から考えるということだ。
なるほど、それは新しいデザインだと思わざるをえない。

4、死に方プロデユース・・・ゴールからスタートを考える

「どんな死に方をしたいと思うか?」
と法話会で聞いたら
初め「ピンピンコロリ」が願いと話され、次に身内の方の死を語り出された。

  義理のお父さんは、自宅で最後まで生活された。
  歩けなくなり、寝た生活になると、
  周りの人が来て世話をしてくれた。
  抱き起こしてくれて、外の様子を見てもらうなど。
  その時のうれしそうな顔、そして、手を合わせていた。

  穏やかな人で、叱られたことは一度もなかった。
  私たちのことを「あれんたあはオシドリ夫婦や」
  と言っていたと聞いた。
  私もそんな年寄りになれるかしら。

義父の世話をしながら、義父のようになりたいと願う。

年末に往生された方が私に語ってくれたことを思い出す。

  おじいさんがぼけてきて、名前を言えなくなってきたとき、
  抱き起こしてくれと言うので、後ろにまわって抱いてやって
  「誰に抱かれとるかわかるか?」と聞いたら、
  「ご本願のお慈悲( 阿弥陀様)に抱かれとる」と答えた。

はるか昔の子どもの頃のことを昨日のことのように話されるのを聞いていたことを思い出す。
「死をスタートにする」ということはこういうことだと思う。
それが生きることであり、 浄土からスタートする生だと思う。

5、浄土から今を見る

法事で質問を受けた。

〇死後の世界があるとどうやって証明できるのか。
〇人それぞれの真実があるだけで、真理はないのではないか。
〇何億光年の彼方からやってくる光は、
  どうしてそんな永い時間の旅ができるのか。

実はここの所、
蝉の話「虫+恵蛄《けいこ》春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」をしている。
これが面白いらしく、聞く人の脳を刺激するらしい。

3番目の質問が一番簡単で、私たちには何億年と感じるけど、
光にとっては時間は0で、しかも距離も0。
光にとっての時間は √(1-v2/c2)t1なので、vをcにすると1-1=0
になる。距離も同じ。
これは蝉の話と同じで、自分の立場から考えると不思議だけど、
光になってみると、不思議でもない。
が、特殊相対論が不思議だ。
アインシュタイン相対性理論 …中学生にもわかる、特殊相対性理論」

そして、この光の性質は法蔵菩薩の修行と弥陀の成仏を見事に示している。
弥陀の成仏は十劫の昔だが、光と同様に、弥陀にとって名号となって私を救うのは今なのだ。時間は0。
西方十万億仏土という距離も、弥陀にとっては0なのだ。

一番目の質問は難しい。
昔、私が学生の時に寺の日曜学校で、
「もし死んだら、そのことを教えに出てくるでな」
と言ったと語ってくれた。彼はその時中学生。
そういえば、そんなことを言ったなぁと思い出した。
もう40年以上も前のことだ。

それで、その証明を4つ考えた。
こんど組の総代会があるので、そこで話そうと思っている。
私は証明=納得と考えているから、つい証明と書いてしまったが、
あくまで私自身の領解である。
一つだけ紹介すると、

私たちが蝉を見ると、蝉は夏に生まれて夏に死ぬことがわかる。
しかし、蝉は春や秋を知らないから今が夏だということを知らない。
とすると、私たちももしかしたら蝉と同じではないか。
蝉を見る私たちのように、私たちを見る仏から見ると、
私たちも蝉と同じではないか。
仏から見たら、私たちは生まれる前や死んだ後の世界を知らない蝉なのだ。
これは、「私たちはどこから来たのか」、「どこへ行くのか」という問いを持つことと同じことだ。

さて、問題は2番目だ。
実は科学と仏教の共通点が一つある。
それは真理は存在すると思っているところだ。

科学の方は、現象が語りかける真理(法則)に近づく仮説を提示するが、
仏教の方は、真理が直接語りかけてくると考える。
語りかけてくるところは一緒だけど、
科学の提示する仮説は無限の仮説によって成り立っている。
仏教の方も現象が語りかけてくるのだが、 受け取るのはその人の経験が左右するからそれぞれと考えてしまうけど、 それを真理( 仏)からの働きかけと考えるのだ。
そして、一切のできごとをすべて意味あるものとして肯定する。

私はこのとらえ方がとても気に入っている。
間違いだってちゃんと教えてくれる。

6、往相と還相

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。
一つには往相、二つには還相なり。
往相の回向について真実の教行信証あり。
なぜ最初に二つの廻向を出されたのか 少しわかり始めてきた。

浄土のはたらきには二つある。
往相の廻向は私たちの生きる相、すなわち私たちの生きる道。

還相の廻向は死者と阿弥陀仏の私たちへのはたらき。
これは縁起ともいう。
それは、仏と死者たちの私へのはたらきかけであり、 やがて私たちもそういう働きができるようになる。

  「死んだら終わり」ではない
  「見えているものが全て」ではない
  「見えている世界しかない」のではない
  「世界は生きているものだけの世界」ではない


    仏暦二五六〇年( 平成二九年)十月

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