仏さまはどこにいるの?

おばあちゃんの口癖

 おばあちゃんの口癖は「 ナマンダブ」だった。何かのおまじないかと思っていたら、お母さんが、あれは念仏だよと教えてくれた。おばあちゃんに何かとても辛いことがあった時から、「 ナマンダブ」と言い続けているらしい。

 ある時、仏壇の前で念仏していたので、この人は誰?とおばあちゃんに聞いた。この人はアミダという仏さまだよと教えてくれた。
 仏さまってどんな人?と聞くと、この仏さまはね、いつもお前を見守ってくださっているんだよ。そして、困っている時、必ず救ってくださるんだよ、と話してくれた。
 どんな時に現れるの?と聞くと、「 ナマンダブ」と言えばいつでも現れてお前を救ってくださる。私は始めて「 ナマンダブ」と言ってみた。仏さまは知らん顔をしていた。
 おばあちゃんは食事の時に、一粒の米の中にも仏さまがいるんだよと教えてくれた。私にはご飯にしか見えなかった。おばあちゃんは「 ナマンダブ」と言えば、声となって現れてくれるし、見えなくてもちゃんと居るから心配しなくても良いという。
 でも、私がいじめられている時に現れて、いじめている子たちをやっつけてはくれなかった。欲しい物があった時、現れて買ってくれなかった。テストでわからなくて困っている時に現れて教えてくれなかった。そのうち念仏することをすっかり忘れてしまっていた。

 大きくなって、いろいろなことを学んだ。科学を学ぶと、世界を創った神様はいなくなった。神様は法則になった。神様と違って仏さまは世界を創ったわけではない。ただ、私たちを必ず救うという。いらんお世話だと思った。社会を造っているのは人間だ。だから、その社会を生きている人間を救えるのも人間だ。そう思って社会の成り立ちや仕組みを勉強した。いろいろな矛盾もわかってきた。その矛盾と闘った。私の頭では、この複雑すぎる世界を理解することも救うことも難しかった。
 でも、世界にはすばらしい人がいることがわかった。その反面、人間のことを知れば知るほど、どうしょうもない存在のように思えてきた。自分中心で得手勝手な行動をして地球を食いつぶしている人間。戦争を起こし、罪のない人を殺し、いつまでも争いあっている人間。人を比べて、お前は役立たずの人だとか価値がない人だとか評価している人間。よく考えたら私もその人間の一人だということに気がついた。人間なんていなくなった方がいいのじゃないだろうか。そんなことまで考えた。

 でも、おばあちゃんは、仏さまはその自分勝手な人間を必ず救うと言っていた。一体、どうやって救うんだろう。知りたくなった。そこで仏法の勉強を始めた。仏法の道を教え示してくれる人がいた。その人は、まず念仏をせよという。おばあちゃんと同じだ。念仏をすれば、その念仏のいわれを知りたくなる。その物語を知り、念仏していれば、自分の罪深さが見えてくる、自分の悪い所が見えてくるという。
 そんなことをしたら、私はボロボロ。ただでさえ自信がなくなっているのに、自分はダメな人間だ、生きていてもしょうがないと思ってしまう。そう言うと、心配するな、ちゃんと仏さまがついているからと言われる。君が自信を無くしているのも、ダメな人間だと思ってしまうのも、ちゃんと知っている。そういう人を必ず救うと誓われた仏だから。

 そんなことを言われても信じられない。どうやって救ってくれるの? 救われるという証拠はあるの?
 その方法は、仏さまと同じ仏になることだ。そんなのムリムリ。でも、お釈迦様も修行をして仏になったと聞いたな。修行すれば仏に成れるの?いや、修行はむしろ邪魔になる。ただひたすら念仏するんだ。念仏も修行じゃないの?違うよ。念仏は仏さまへの呼びかけであり、やがてそれは仏さまからの呼びかけになる。
 そして、今まで何千何万という人たちが、まちがいなく救われている。インド・ 中国・ 朝鮮・ 日本、はるか昔から今まで、多くの人がまちがいなく救われたと証言している。どんな証言なの?
 ある人は、私はとうてい仏にはなれない。だけど、仏さまの方から私になってくださると感激している。ある人は、自分の救われ難さを深く自覚し、だからこの私を救ってくれるという仏の心に思い至っている。ある人は、私は仏の子であった。それなのに私は恥ずかしい行いをしていたと深く深く反省している。ある人は、私が一生懸命仏に呼びかけていたが、実は仏が私に呼びかけていたのかと発見している。ある人は、救われているのに少しも喜ばない自分だからこそ救ってくださるのだと喜んでいる。ある人は、苦しみが多いほど、煩悩が多いほど救われた喜びが多いことに気づいている。ある人は、仏の修行は自分の胸の中であったと知り感謝している。ある人は、それまでの自分と違う自分を発見して驚いている。

 これって、何だか発見のようだね。そうなんだ。これは大きな喜びをともなう大発見なんだ。自分の中で新しい世界が発見されるということなんだ。この新しい世界を浄土という。新しい世界が見つかると、今までの自分や今までの世界の見え方が違ってくる。今まで生きていた世界を俗世間という。その中で一生懸命に生きてきたからこそ、新しい世界=浄土が見えてきた。
 そして、その世界では、今まで見えなかったことが見えてくる。知らない所で懸命に生きている人、私のために様々なことをしていた人、私を生かしてくれた自然、私を成長させた出来事。仏さまが見えてくるんだ。
 そして、周りを見ると、この新しい世界に気がついている人と、気がつかずに苦しんでいる人がいる。だから、気がついている人と一緒に、苦しんでいる人に声をかけてやりたくなってくる。「 ナマンダブ」と。

 そうなってくると、自分が変わってくる。今まで腹が立ってならなかったことがなんともなくなったり、人に優しいこともできるようになる。でも、それは、私がやっていることではない。仏さまが私になってやってくださっているのだ。だから、自慢したり、私は偉いなどと思うこともない。
 自分が悪いことをしても、なんていうことをしたんだと、すぐに気がつき正そうとする。それに気づかせてくれたのも仏さまだと思える。だから、救われていると感じることもできる。そうなると、感謝の念仏になる。
 やがて、この浄土はどこにでもあるのだとわかってくる。だから、どんな死も意味を持つものとわかり、死が恐くなくなる。

 そうか。おばあちゃんがいつも「 ナマンダブ」と言っていたのは、いろんな事に気がつくたびに、「 仏さま教えていただいてありがとう。」ということだったんだな。

 
    仏暦二五五三年九月

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