他力の信心

私の中にある自己中心性をどうしたらいいのか

 仏は、私にとって理想の人間像です。だから、仏を知ることは自分の未熟さ知ることでもあります。ところが、そうすればそうするほど自分の至らなさを自覚し、どうしようもない気持ちになってしまいます。
 例えば、縁起の法によって自らの関係性を頭の中では空と見ても、身体は身もだえし苦しむ。「 自分のもの」なるものが幻想であると思っていても、無くなれば困り果て怒り出すのです。
 赤ちゃんは、母親(保護者)の絶対的な受容の元で、全能感を持ちます。これが社会に対する基本的な信頼感の第一歩です。ですから私たちは自己中心性から出発することになります。そして、これは利己的な行動ともなりますが、他の子どもとの接触によって、他者を取り込みつつ自我を形成していきます。この他者の取り込みが自我形成だとすると、私たちの存在はまさに他者との関係の中で成り立っていることになります。そこに煩悩がクローズアップされてくる原因があります。自分の中にどうしょうもできないこだわりや囚われが出てくるのです。
 これは、なかなか捨てきれるものではありません。逆にそういう執着があるから生きていけるのかもしれません。
 では、私はどうしたらいいのでしょうか。私の中にある大きな自我、それを、私の大我だと思った瞬間に小我になってしまいます。大我は無我といっても、私は無我にはなれない存在なのです。  

場所の働き

 ところで、無我になる(=他力)とは自分のはからいを捨てることといわれます。しかし、自分のはからいを捨てることなどどうあがいてもできません。
 とすると、この身を凡夫から仏にするよりも、この身のまま迷いの世界から悟りの世界(浄土)へ往く方が可能性があります。修行の問題を、場所の問題に転化させるのです。修行ではなく、浄土の働きにまかせて仏にならせてもらうのです。この浄土にいれば煩悩を絶たなくても仏になることができるのです。
 そのような都合の良いことがはたして起こるのでしょうか。そもそも、自らのはからいを捨て去るわけですから、このような疑問を持つことも、はからいになってしまいます。どうやらこれは、全く逆の発想をしなければならないようです。逆とは仏の側から考えるということです。自分の側から考えるからはからいが出てくるのです。仏にまかせること、つまり、仏の大慈悲心が行っていることですからまかせてしまうのです。
 では、浄土にいるということはどういう状態なのでしょうか。そして、浄土にはどのようなはたらきがあるのでしょうか。(浄土のはたらきについては「 五念門」へ)

浄土は仏の大慈大悲によって生じた

 仏は元々なにがゆえにこの荘厳(しょうごん:浄土を建てられること)を起こしたまわれたのか。
 愛欲を持つが故に欲の世界におぼれる。下位をきらい上にいこうとする。物欲におぼれ迷いの世界から出たいと希うこともない。そういう衆生を悲しみて大悲心を起こしたまう。
 鳥の巣から卵をとって食とし、あるいは沙を入れた袋をかけて、それを指して一時の飢をしのぐ慰めとする。ああ、なんと痛ましいことではないか。
 意志が弱く、差別の心が常にある。なんと痛ましいことではないか。
 ゆえに仏は大悲心を起こしたまう。
 安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆえに。この大悲をいいて浄土の根となせる、ゆえに「 出世善根生」とのたまう。
        浄土論註より

他力の信心(仏が与えた信心)

 仏の大慈大悲が浄土を生じさせたわけだから、浄土は真如の世界です。その真如の世界に生まれさせたいという仏の願いは、大無量寿経の第十八願にあります。
「 もし、わたしが仏になったとき、十方の衆生が心からわたしを信じ喜び、往生をねがい、十念念仏して、往生することができぬなら、決して仏となるまい。ただ五逆の罪を造り、正法を謗(そし)る者を除く」
 この願には、心から信じ心から喜び心から往生を願うならばという「 条件」がついています。浄土に入るには、この至心・ 信楽・ 欲生が必要なのです。しかし、私はその時はそう思っても、日々の生活の中でこれらの気持ちを忘れてしまいます。念仏でさえ忘れてしまうことがあるのです。だから浄土へは往生できそうもありません。
 ところが、浄土教の祖師たちはそうではないといいます。私たちはそういう存在であるから、仏が浄土を建てられたのだと。そして、この三心は私たちの心ではなく全て仏の心であると。私たちがそういう心を持てるのも仏が私たちに与えたからだと。
 これが他力の信心であります。

正法を謗(そし)る罪のみ

 この願の中に、「 ただ五逆の罪を造り、正法を謗る者を除く」というさらに厳しい条件がついているのに気がつきます。五逆とは、父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏を傷つけ、教団の和合を分裂させることの五つであり、正法を謗るとは、仏の教えを謗ることです。悪いことをしたものは浄土に往生することはできないのでしょうか。
 この問題に対して曇鸞大師は次のように語られています。
問うていう
 《 無量寿経》には「 浄土の往生を願うものは、みなこれを得る。ただ、五逆罪と仏法を謗るものとを除く」と説いてある。《 観無量寿経》には「 五逆・十悪などいろいろの善くないしわざをそなえているものも、また往生できる」といわれている。矛盾があるが、この二つのお経の意をどう解釈すべきであろうか?

答えていう
 《 大経》の方には、二つの重罪を兼ねているからである。一つは五逆、二つは仏法を謗ることである。この二つの罪があるから往生を得ぬといっている。《 観経》は、ただ十悪・五逆などの罪を造るといって、仏法を謗るとはいわれていない。仏法を謗らないから、こういうわけで往生を得るのである。

問うていう
 五逆罪を造っても仏法を謗らないから往生を許されるならば、例えば、ある人がただ仏法を謗るだけで五逆罪などのほかの罪を造らないなら、往生を願えば浄土の往生ができるであろうか?

答えていう
 ほかの罪が一つもなくても、ただ仏法を謗れば必ず往生はできない。なぜかといえば、経《 大品般若経》の中に「 五逆の罪人は無間地獄の中におちて、一劫の間の重罪を受ける。仏法を謗った人は、無間地獄の中において、その一劫がつきると、また転じて他の無間地獄の中におちる。このように、百千の無間の大地獄をめぐる」と説かれてあって、仏はこの人間が、地獄を免れる時がいつであるかを示されていない。
 それは、仏法を謗る罪が最も重いからである。また、正法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人間は、すでに仏法を謗っているのであるから、こういうものが浄土の往生を願うはずがない。たとい信がなくて、ただ浄土の安楽なるを聞いて、その楽しみを貪って往生を願うものがあるとしても、あたかも、水でない氷、煙のでない火を求めるのと同様で、往生をうる理のある筈がない。

五逆は正法がなくなるから起こる

問うていう。 どのようなことを正法を誹謗するというか。

答えていう
 私もなく、仏法もなく、菩薩もなく、また菩薩の法もないと自分で考え、他の人に言い、あるいは他の人に教えられてそういう心になっているものを、すべて正法を誹謗すると名づける。

問うていう
 このような考えは、ただ自分が考えているだけである。他の人に対して、どういう苦しみを与えているから、五逆の重罪より越えているというのだろうか。

答えていう
 もし、諸仏・菩薩のような方々が、世間の道や、また仏法の道の善い教えを説いて衆生をさとされることがなかったならば、どうして仁義礼智信という世間の道があることを知ろうか。このようにしたならば、世間の一切の善い道が断たれてしまい、仏教の一切の尊い方々がなくなってしまうであろう。
 あなたは、ただ五逆罪が重いということを知っていて、五逆罪は、正しい法がなくなるから起こるということを知らないのである。こういうわけで、正法を誹謗する人は、その罪が最も重いのである。
 正しい法(仏法)を謗(そし)るのは、例え思っているだけでも五逆の重罪よりも重い。そのわけは、浄土(仏法)から正しい道徳が生まれるからである。浄土が無いと思うから五逆の罪を犯すのである。眼も覚めるような鋭い大師の論法である。
問うていう
 業道を説かれた経典の中に「 業の道理は秤のようなものであって、重い方が先に引く」と説かれてある。《 観経》には「 人が五逆・十悪を作り、多くの善くないしわざをそなえるならば、まさに悪道におちて、はかり知られぬ長い間、無量の苦しみを受けねばならぬ。ところが命の終わるときに臨んで、善知識が教えて南無阿弥陀仏を称えさせるくださるのに遇うた。このように、心から念仏を称えて十念を具足するならば、すなわち安楽浄土に往生し、大乗の正定聚の位に入って、ついに後戻りはしない。そこで、三塗のいろいろな苦しみとはもう永く隔たってしまう」といわれている。そうすると、重い方が先に引くという業道の理においてはどうなるのか。

 また、無始よりこのかた、多くのいろいろなしわざをして来た有漏の結果である身心は、三界に繋がれている。それが、わずかに十たび阿弥陀仏を念ずることによって三界を出るとするならば、業力につながれるといういわれはまたどうなるのか。

救われるのは縁と心の決意にある

答えていう。
 そなたは、この世で犯した五逆・十悪や、無始以来三界に繋いでいる業などを重いとして、下下品の人の十念を軽いとする。そこで、犯した罪に引かれて先ず地獄におち、三界に繋がれるというならば、今まさしく義理をもって比べよう。軽い重いということは、つとめる人の心にあり、その所縁にあり、またその時の心の決定か不決定かにあるのであって、時の長い短い・多い少ないにかかわるのではない。

 その「 心にある」とはどういうことかというと、かの罪を造る人は、真如にそむいた誤った考えから生ずるのである。この十念の念仏は善知識が教え慰めて、真如にかなった名号法を聞かせることから生ずるのである。一は真実であり、一は虚仮である。どうしてこれを比較することができようか。
 たとえば千年の闇室に、もし光がしばらくでも入れば、ただちに明るくなるようなものである。どうして、闇は千年、室の中にあったのだから光が入っても去らぬということができようか。これを「 心にある」というのである。
 「 所縁にある」とはどういうことかというと、かの罪を造る人は、みずから妄想の心により、煩悩虚妄の果報である衆生を相手として起こす。この十念の念仏は、この上なき信心により、阿弥陀如来の真実のお慈悲より成就した尊い名号によって生ずるのである。たとえば、人が毒の矢を受けて、あたったところの筋がきれ、骨が破れたとしても、もし滅除薬を塗った鼓を聞けば、矢は抜けて毒も除かれるようなものである。
 「 決定にある」とはどういうことかというと、かの罪を造る人は、まだ後があるというゆっくりした心や、他の様々な思いが混じった心によって起こす。この十念は、もはや後がないと考え、したがって、専念の心によって起こる。この三つの道理から考えると、十念の方がその力が重い。そこで、重いものがまず引いて、よくこの三界の迷いを出ることができる。こういうわけで、《 観経》と業道のことを説かれた経典とのいわれは一つである。

蝉は夏を知らない

問うていう。
 念仏しているときに、心が他のことを考えるならば、相続ではない。もし心を凝らしてそのことに想いを注ぐならば、どうして念仏の数を知ることができようか。

答えていう。
 《 観経》に十念と説かれてあるのは、ただそういう人は往生の業事が成就するということであって、必ずしもその念仏の数を知らねばならぬというのではない。
 たとえば蝉は春秋を知らない。ゆえにこの虫は夏ということも知らないのである。ただ人間がそれを知って、蝉が鳴くのは夏だというだけである。十念によって往生の業事が成就するというのは、神通力をもっている仏がいわれるだけである。衆生においては、ただ念仏相続して他のことを考える必要がないのである。また、どうして念仏の数を知らねばならぬということがあろうか。
        往生論註より
 まさに、
「 水のでない氷、煙のでない火を求める」
「 闇は千年、室の中にあったのだから光が入っても去らぬと思う」
「 夏を知らない蝉」である
 のが私なのです。
 そういう私の心に仏の大悲大慈の光がさしこむところ。それが浄土。
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