浄土論
(浄土はこの世にあるのか、あの世にあるのか)

 若い頃、私は正月の年始回りに朝九時に寺を出たのですが、一軒目のNさんと飲み始め、そのまま夜の十時まで話し込んでいたことがあります。
 Nさんは話の好きな人で、私とは格好の議論の相手でした。800年前の教えが今通じるのかとか、あの世よりもこの娑婆の方が大事じゃないかとか議論しました。私もどうしたら通用するのか、浄土は本当にあるのか、あるとしたらどこにあるのかと悩んできました。
 Nさんはいつも現実的な見方をする人でしたが、魂はあると固く信じていました。
「 わしは人魂(ひとだま)は見たことがあるであると思っとるが、あの世(極楽)は見たことがないで存在しんと思っとる。」
 そう言われると、悩んでしまいます。だから、この疑いは私の疑いでもありました。京都での教師習礼のとき、講師の方にお尋ねしてみました。
「 浄土はあの世にあるのですか。この世にあるのですか。」
 まんだそんなことをいっとるんかと叱られるのではと思っていると、講師の都呂須孝文先生は「 いい質問です。」と言われ、黒板に丸を描きながら説明をしてくださいました。
「 私たちには浄土を見ることはできません。それは煩悩があるからです。浄土の光も見ることができません。しかし、その光に照らされてできる影は見ることができます。その影が私たちの煩悩です。影があるということは確実に光があるということです。ですから、自分の煩悩が見えるということはそれを照らし出す浄土があるということです。」

 穢土は争い・ ねたみ・ 憎しみ等苦に満ちた無明の世界です。それは闇に包まれた私の世界です。ですから、そこにいる私には仏の光が見えません。自他の差別をし、我執の殻に覆われ真実を見ることができないからです。でも、確かに仏の光が当たっています。それは何処でわかるのでしょうか?
 私たちには自分の煩悩が見えます。闇の中でなぜ自分自身の煩悩が見えるのでしょうか。それは、光が当たっているからです。もちろん光を見る力は私たちにはありません。でも、影は見ることができます。我執の殻に仏の光があたって影ができます。この影が煩悩(貧欲とんよく・ 瞋恚しんに・ 愚痴ぐち)なのです。光があたらないと煩悩を煩悩と見ることができません。
 浄土は不安とか苦悩のない世界です。自他の差別を超えた平等の世界です。また、真実の世界であり、虚空です。虚空だからはたらきがあります。そのはたらきは、仏(真如=一如)の光(大慈の光・大悲の光・智慧の光)となって私たちを照らしています。仏とは如来です。如来とは真如より来たれるものです。必ず救うぞという光を私たちにそそいでいるのです。親鸞聖人にとって仏は光でありました。  
あまねく無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、 清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、 超日月光を放ちて塵刹(じんせつ)を照らす。一切の群生、光照を蒙(こうむ)る   (正信偈)
 仏は、無量光・無辺光・無碍光・無対光・光炎王・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光を放ちて、一切のものを照らしていますよ。無明の闇の中にあって、この光に照らされたとき、自分自身の我執の影(=煩悩)が見えてきます。そして、私たちの心の中にお浄土が開けてきます。
智慧の光明はかりなし 有量(うりょう:形あるもの)の諸相(姿)ことごとく 光暁(こうけう:影響)かふらぬものはなし 真実(光)明に帰命せよ
               (讃阿弥陀仏偈和讃  愚禿親鸞作)
 自分自身の煩悩を自覚するとき、まちがいなく仏の光があります。お浄土があります。そして、すでに仏の光につつまれたお浄土にいることを感じます。だから安心が生まれてきます。
極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、 煩悩、眼を障(まなこをさ)へて見たてまつらずといへども、大悲、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり
                 (正信偈)
 そうすると、お浄土を感じさせてくれたものは我が身に染み付いた煩悩という事になります。煩悩があるということは生きている証でもあります。でも、この煩悩は、光が常にあたっていることすら忘れさせる代物です。だからその時のためにこそ念仏があるのです。念仏が光となり私の煩悩を照らすのです。

 ところで、この光ってもしかしたら良心のことでは?と疑問を持たれた方もいると思います。良心は自分の間違った行動をふり返らせてくれる心ですから、この光とよく似ています。でも、この光は良心ではありません。なぜなら、私には良心という心はないからであります。

 できるなら、この様なことを再度Nさんと議論したいものだと思っていましたが、かなわなくなりました。思うのですが、Nさんの一生懸命に生きてきた姿が、Nさんの魂であり、私たちにとってそういう思い出がお浄土なのではないかと思います。
 Nさんはとても頑丈な方でした。以前屋根から落ちてから元気をなくしていましたので、心配をしていました。立派な家を造り、ご家族を愛された家からお浄土へと往かれました。そして、今お浄土から私たちの穢土へ来られて、私たちやご家族を見つめ、見守ってくださっています。ですから私は今でもNさんと対話を続けています。
 お見舞いに行ったとき、お話はできませんでしたが、手を出してきてしっかりと握られました。また一緒に酒を飲もうとお約束をしました。お浄土で一緒に飲もうと。お浄土に酒があるのかどうかは知らないけれど、きっと一緒に飲むと思うのです。
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