春の永代経

 今年も永代経の時期がやってきました。
 桜は少し早目に散りましたが、境内の牡丹は今が盛りです。母が丹精こめて世話をしていました。永代経の折に、見てくだされば幸いです。



 連休前には、源平桃と駒サの桃が見事に咲きほこっているのを見ました。桃源郷のような情景に浸ると同時に、唐の劉廷芝の「 代悲白頭翁」の漢詩を思い出します。

洛陽城東桃李の花
飛び来たり飛び去って
誰が家にか落つる
洛陽の女児顔色を惜しみ
行く行く落花に逢って長く嘆息す
今年花落ちて顔色改まり
明年花開くとき復た誰か在る
己に見る松柏の摧かれて薪と為り
更に聞く桑田の変じて海と成るを
古人復た洛城の東に無く
今人還た対す落花の風
年々歳々花相似たり
歳々年々人同じからず
言を寄す全盛の紅顔子
応に憐れむべし半死の白頭翁
   自分だけの生のみを思うのではないよ。春と同じように、また新しい人がやってくるのだから。遥かなくり返しとの対比で浮かび上がってくる私たちの限りある寿命。
 私たちの限りある生と、くり返しくり返しやってくる春との対比は見事な対句を生み出しました。私たちはこのレトリックに惹かれます。無常観は、それを直接言うのではなくて、このような対句にした時に現れてくるようです。
 兼好法師の徒然草にも同様な対句があります。
春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。
春はやがて夏の気を催(もよお)し、夏より既に秋は通ひ、
秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、
草も青くなり、梅も蕾みぬ。
木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず、
下より萌(きざ)しつはるに堪へずして落つるなり。
迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとる序甚だ速し。
生・ 老・ 病・ 死の移り来る事、また、これに過ぎたり。

四季は、なほ、定まれる序あり。
死期は序を待たず。
死は、前よりしも来らず。
かねて後に迫れり。
人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、
覚えずして来る。
沖の干潟遥かなれども、
磯より潮の満つるが如し。
 どうも私たちは生が終わって死が来る。つまり、死は前にあると考えているようです。でも、死は前から来るのではなく、後から迫って来ている。前というのは未来です。死は未来から来るのではない。過去から迫ってきている。
 春の中に夏の気があるように、過去の中にすでに死がある。生の中に死がある。木の葉が落ちるのも、地面からの芽生える力に押し出され堪えられなくなるから落ちるのである。
 それはちょうど個体の死と、種としての生を示しているようです。また、個体の生の中にもすでに死があります。死があるから生があるということです。でも、そういった大きな力や流れを自覚したときに、私たちの生も輝いてきます。

 往かれた人は、そんな大きな流れの中に入っておられます。そして、私たちもまた、懐かしい方々と一処で会うことができます。「 倶会一処」です。
 それが阿弥陀如来の願いであり、如来は願いそのものでもあります。往かれた方々の願いもこの弥陀の大きな願いの中に入っています。弥陀と同体になられたご先祖を縁として、大悲の中に生かされている私を振り返り、その想いを引き継いでゆくのが永代経です。


     二〇〇九、五 
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