後生の一大事 (美濃島与之助さんの話)

 六十年ほど前、当村の切立という所に、美濃島与之助さん(明治四〜昭和二十)という方がおられました。
 「 切立(きったて)には過去に、人の鏡となるようなお方が二人出現した。一人は宝暦騒動(郡上一揆)の首謀者の一人として、江戸で獄門の判決をうけ若い生涯を閉じていった島村喜四郎。そしてもう一人は、みんなから生き仏と崇められた美濃島与之助さんである。」
と、古老から聞いたことがあります。
 与之助さんは、近隣の方たちから「 先生さま」と慕われた方でありましたが、自身は荷車を引いてその日暮らしの生活をしていました。若い時から小学校の教員をしておりましたが、四十六歳のときお母さんが亡くなり求道聞法の気持ちが益々高まり教職を辞した後、郡上で荷車引きや名古屋で土臼製作所に勤めながら道を求めます。
 与之助さんの求道とは、「 後生の一大事」を明らかにすることでありました。与之助さんにとって「 後生の一大事」とは何だったのでしょうか。

機と仰せらるるに三つある。
一つにはかかるあさましき機
二つには自力執心の機
三つには弥陀をたのむ機
 これは、与之助さんが残されたメモです。機というのは、私たちのことです。仏性があるという意味で機といいます。与之助さんは、自分の心には「 あさましさ」と「 自分が自分がと思う心」「 弥陀仏をたのむ心」の三つがあると言われているのです。
 学校の勤めが終わると、夜な夜な八幡まで八里の道を歩いて来訪し、法を求めるに己を顧みない与之助の痩せ衰えていく姿を案じ心配なされた最勝寺の多田専浄師のことを母親に話すと、母親ぢうは
「 そうか心配してくだれたか。かたじけないのう。そうじゃが後生のことで痩せるということは目出度いのう。」
 与之助さんはお母さんを大変尊敬していました。「 後生のことで痩せるということは目出度い」という言葉の中に、真実を追究することが最も大事なことだという母のメッセージがあります。与之助さんは生涯母を師と仰ぎ、母は子与之助を聞法の先達として頼り切っていました。  
お母さんは、風呂敷包み一つおねて嫁にござったということじゃ。そして、風呂敷を広げて、「 おりの持って来たもんは、たったこりだけのもんじゃが、よろしゅうお頼みしますぞな。」と頭を下げなされたそうじゃ。そうじゃ、そうじゃ、なんにもないたったこれだけのもんじゃったわい。
 「 御一念はとって投げて、えなほす如くお蔭にあってくりょい。得直(えなお)す如くじゃぞよ。」
 己が持っているものは、何もない。信ずる心すらも。我が身はすでに阿弥陀様に御任せする身であって、「 すべて初事初事とお聞かせいただく。」これが、「 得直す如く」ということであります。

 お母さんを亡くし、教員を辞めた与之助さんに更なる不幸が襲います。頼り切っていた妻が亡くなったのです。残された四人の子どもを抱え、押し迫る貧困と幼い生まれたばかりの幼女の世話に身動きが取れなくなりました。親戚に集まってもらい、末っ子のユキをさして、たっての願いを申し出たのです。
「 どうか、ご親類衆で、この子を預かってもらいたい。」
どの親類も子沢山で、貧しくてたとえ身寄りの家の子とて預かる余裕などまったくなく、
「 小さい子どものことじゃし、万一のことがありゃ心配じゃで。」
・・・
「 この子をよう預かってもらえにゃ、親類ご一同で、俺が後生の一大事を引き受けてくだれるか。」
 この言葉に、親類衆も動揺し、意を決して娘さんをあずかることにしました。この親類の方も偉いですね。当時の人々にとって「 後生の一大事」という言葉は確かに生きていたのであります。
 ところで、後生が死後の世界だとすると、後生の大事とは生きている今のことよりも死後の世界のことの方が大事ということになります。私たちの常識からすると、後生のことよりも先ず娘を何とか育てることの方が大事ではないかと思ってしまいます。でも、与之助さんにとって大事な娘を預けてでも追求しなければならない今生の大事だったのです。
 私は、この時の与之助さんのお気持ちを思うとき、歎異抄のこの章を思い出します。
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲、始終なし。しかれば、念仏まうすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらふべきと云々   《 歎異抄第四条》
 「 後生の一大事」とは、仏になることであります。でも、凡夫が仏になることはできません。私たちができることは生まれ変わることです。
 『 本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は、後念即生なり。(前念に命終して後念に即生す)』と親鸞聖人が語っておられます。本願を受け取った時、それまで自分中心に生きてきたいのちがつき、新しく生まれ変わる。それは、私たちの生きている世界が回転するほどのこと、この様な状態を回心(えしん)と言います。

 「 後生の一大事」=「 回心」を求めて与之助さんは子ども達をつれ、新潟や博多、伊勢の善智識を訪ね歩きました。自らの疑問を述べ、そして領解するまで何週間も聴聞されたのであります。
 与之助さんは常々自分ほどおぞくたい人間はおらんと言われていました。仏の世界(浄土)に触れられた与之助さんは、常に仏の方から己を見つめていた方でありました。そして、与之助さんの所へ救いを求めてやってくる方たちに、こう語られていたのです。
「 信心は要らぬのじゃ。博多の万行寺様(七里恒順和上)が仰せられたが、信心は捨ててくるのじゃ。信心の欲しいものは、白紙に色を付けにかかるのじゃが、色をつけたって何にもなりゃせん。白紙のままで助けてくださるのじゃ。」
 母ぢう女は十一人の子を授かりましたが、そのうち八人は次々と死んでいって、三人だけが生きながらえただけでした。子どもが死んで行く度に、  
「 有難いことじゃ、安心しかかると、子どもが死んでってくれては、引き立てて下される。」
と、言われました。子どもが死んで悲しまない親はいません。娑婆の生活に安住していると、子どもが死んでいった。そして、後生の大事を思い出させてくださった。与之助さんは次のように語られています。
「 恵信僧都作の仏像を安置しておると家がつぶれるという。そうであろう。此の世が繁盛して思うように行くと、娑婆のすわりになって後生を忘れるから、娑婆の楽しみを、ちょっとお預かり遊ばして、もっと大きな御慈悲を与えたもうたんじゃ。」
 「 後生の一大事」とは「 生死出ずべき道」でありました。「 生死出ずべき道」とは親鸞聖人が生涯を通じて求められた生き方です。ここで「 後生」を「 いのち」と置き換えてみたらどうでしょうか。「 いのちの一大事」…私のいのちの本当のあり様を求めずにはおれない生き方だったのです。
人身(にんじん)受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生(こんじょう)に度せずんば、さらに何(いず)れの生(しょう)においててか、この身を度せん
             三帰依文
        『 谷間の妙好人 ほとけ与之助』 上村彰隆編より

Counter    目次へもどる