我愛福徳・・・なぜ功徳を積むのか

 功徳とは、「 すぐれた徳性、善い行為の結果、報いられる果報、修行の功によって得た徳」のことです。浄土教では行者の功徳ではなく、阿弥陀仏の功徳のことをいいます。
 功徳を積むということは、施しをすること、戒律を守ること、たえ忍ぶこと、すすんで努力すること、精神を統一すること、真実の智慧(さとり)を得ることです。
 この功徳について、曇鸞大師が、阿弥陀仏の功徳だけで十分なはずなのに、さらに菩薩の功徳をいうのはなぜかと問われ、次のようなお話を紹介してみえます。
 釈迦如来は、目の見えない一比丘が「 だれか功徳を愛する方が、わたしのために針に糸をつないでくれないだろうか」というのを聞かれ、そのとき、如来は、禅定から起って比丘のもとに来られ「 自分は福徳を愛する」と仰せられて、ついに比丘のために針に糸をつながれた。
 そのとき、失明の比丘がひそかに仏の声を聞いて、驚き且つ喜んで仏に申しあげるのに「 世尊よ、世尊の功徳はまだ満足でありませんか」と。仏が答えて「 わが功徳は円満して、また求める所はない。ただ、この身は功徳から生じた。その功徳の恩を知るからして、それゆえこれを愛するのである」と仰せられた。
                      往生論註 巻上
 一人の目の見えない比丘が自分の衣のほころびに気づきました。縫おうとして針を出したのですが、どうしてもぬい針の穴に糸を通すことができませんでした。
 途方にくれた比丘はこう言いました。
「 悟りに達した聖者方の中で、どなたか私のために針に糸を通して、さらに功徳を積もうという方はおられませんか。」
 するとある者が比丘のそばに近づき
「 私にその功徳を積ませて下さい。」
と言いました。その声はブッダの声でした。比丘は驚いて
「 世尊(せそん)よ。世尊はすでにあらゆる功徳を積まれている方ではありませんか。世尊の功徳はまだ足りないのでしょうか。」
と尋ねました。
その時、ブッダはこう答えたのです。
「 私の功徳(波羅蜜)はすべての点で不足するところはない。ただ、この身は様々な方々の功徳から生じた。私は功徳の恩を知っている。それゆえ功徳を愛するのだ。」
ブッタは針に糸を通されはじめた。

 この目の見えない一比丘とは阿那律(アヌルダ)のことです。彼の目が見えなくなったのはわけがあります。

 疲れていたアヌルダはお釈迦さまの説法中、居眠りをしました。
ブッタは
「 尊い話は、智者にとって楽しみであり、聞く人の心を和ませるものである。居眠りをするとは。何のために出家したのか。」
と叱責されました。
「 私は生老病死の四苦を解脱するために出家しました。」
そして、アヌルダはひれ伏して誓ったのです。
「 ブッダよ、今後一切この身が溶けてなくなろうと、ブッダの前では決して眠りません。」
 以来ブッタの前では決して眠らず、不眠・不臥の修行をしました。やがて睡眠不足から視力が衰えました。それを知ったブッタは、
「 怠慢も、やりすぎも、ともに煩悩なのだから、眠りなさい。」
とさとしましたが、誓いを立てたのだからとかたくなに守りました。
 ブッダは、依然として眠ろうとしないで失明の危機にあるアヌルダに言いました。
「 あらゆる生き物は食事で生きていけるのです。眼には眠りが食事であり、耳には声が食事であり、鼻には香りが食事であり、舌には味が食事である。アヌルダよ、あなたには眠りが必要です。」
 しかしアヌルダは決意を変えることなく、ついに失明してしまったのです。アヌルダの目は見えなくなりましたが、今まで見えなかったものが見えるようになったと喜びました。真実が見えるようになったアヌルダは肉眼を失って天眼を得たのです。

 ブッダは「 我愛福徳」と言われました。福徳というのは功徳のことです。また、幸福と置き換えることもできます。幸福は功徳の中にあるのであって、功徳を積んだ結果、幸福を得るのではない。仏の功徳は願として充たざるわけではないけれど、私たちは尚功徳を愛する。


     二〇〇七、九
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