浄玻璃の鏡

 物語としての仏教

七日七日のおつとめほど、檀家の方とのつながりを深めるご縁はありません。そこで、このようなお話が出ました。

若い人たちにもわかる仏教の話を
世間話でなく仏法の話を

そう言われて悩んでしまいます。古臭い迷信のように思われるかもしれませんが、こんな物語が伝わっています。

閻魔の浄玻璃鏡( じょうはりのかがみ)

なぜ、四十九日と七日毎の法要があるのかというと、十王経という経典に書かれているからです。でも、この経典はずっと後に中国で作られた物語です。
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その五七日目に出会うのが閻魔大王です。
亡くなった人は閻魔大王の前で裁判を受けます。閻魔大王は亡者がどこの世界に生まれるのか、地獄道か餓鬼道か畜生道か修羅道か人間道か天上道か( 六道輪廻)いずれかの行き先を言い渡します。
まず、閻魔大王は手元の帳面を見ながら罪状を述べます。これが閻魔帳。閻魔帳には本人の罪ばかりでなく、善い事も書いてあります。そして、本人は弁護することができます。でも、うそをついたことがわかった時には舌を抜かれてしまいます。
では、うそか本当かどこでわかるのでしょうか。
閻魔大王は浄玻璃の鏡といって水晶でできた大きな鏡を持っています。この鏡には本人の生前の行動がそのまま映し出されます。さらに、この鏡に映るのは、そのことが周りにどんな影響を与えたのか、本人の行動によって周りの人がどんな悲しい目に会ったのかまで映し出すのです。
そして、本人の人生を映画のように映し出します。

これを見た人は、自分自身の人生を客観的に知ることができます。そしてその時に、自身の人生の意味と己の罪を深く感じることができるのです。そして後悔し、慚愧し、懺悔します。

でも、死んだ後では遅いと思いませんか。この話は、生きている間にこの浄玻璃の鏡を使って、我が身を見つめ直せということを述べているのです。

実は、私たちはすでにこの鏡を持っています。心に浄玻璃の鏡を持ち、念仏しています。念仏は生前に自身の罪を見ることができる浄玻璃の鏡です。私たちは念仏とともに、後悔し、慚愧( ざんぎ)し、懺悔( さんげ)します。

でも、「 無意識のうちに罪を犯している」と考えるととても不安になります。私たちの行動はほとんどが無自覚なものですから、それが実は他の人を傷つけているとは気がつきません。
極端に言えば、「 自分が知らずして行なった行為は罪なのか?」という疑問もわいてきます。
知らずに行なったことは、罪になるのでしょうか。

先ほどの閻魔大王の裁判では、罪の自覚は自身が自らの行動の結果を知ることから出てきます。知ることはとても大事なことだとわかります。知らないから罪を犯しているのです。
とすると、無知はやはり罪だと言うしかありません。
だから私たちは学ぶことをやめてはならないのです。

そして、その罪を本当に自覚した人は真の人間に近づいていきます。さらに、罪を感じることのできる感性は仏より授かるものです。だからこそ安心ができます。
後悔ができて初めて人間になるのです。
自らの悲しみを知ることができた人だけが慚愧できます。
人類の悲しみを知った人は懺悔することができます。

この「 浄玻璃の鏡」に対応する願が、第八願「 他心智通の願」です。
この願は
「 私が仏になるとき、国中の人々や天人が、他心通を得ないで、数限りない諸仏国土の人々の心を自在に見抜き知り尽くすことができないようなら、私はさとりを開きません。」
という願いです。
この願は、まず私たちは他者の心を知らずして様々な行為を行っていることを知らなければならないことを教えます。そして、他者の心を知るというお念仏のはたらきを私たちに知らしめてくれます。

合掌してお念仏をしましょう。


    仏暦二五五四年二月

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