指月の譬

言葉( 指)と真実( 月)

龍樹菩薩の大智度論に「 指月の譬」がある。
人の指を以って月を指し、以って惑者に示すに、惑者は指を視て、月を視ず。人、これに語りて、 『 われは指を以って月を指し、汝をしてこれを知らしめんとするに、汝は何んが指を看て、月を視ざる』、と言うが如く
これは、言葉と「 指し示されるもの」との異なることを示している。
この譬はとてもわかりやすく、しかも深い意味を持っているので、いろいろな所で使われている。
問うていう。名はものがらを示すことばであって、指が月をさし示すようなものである。 もし仏の名号を称えて、その人の願いを満足させることができるというならば、月をさす指が闇を破ることができよう。 もし月をさす指が闇を破ることができないならば、仏の名号を称えても、またどうして、よくその願いを満足させることができるであろうか。
この曇鸞大師の問いにどう答えるのだろうか。

曇鸞大師の答えは、意外にも名が月であるというものであった。名号は名ではなく月、つまり法( 真理)であるというわけである。
曇鸞大師は、「 名と法とが異ならないものもあり、 名と法と異なるものもある。」と言われる。名号は名と法が異ならないものなのである。

問いから言えば、月をさす指( 名号)が闇を破ることができるというわけである。
これを身体との関係でとらえると分かりやすい。その名や音声が身体に具体的な作用をするということだ。これは、言葉というものにもっと大きな意味を持たせたものだろう。指し示すはたらきとしての言葉ではなく、その言葉自体がはたらきを持つ。
そういえば、言葉は私たちの身体に大きなはたらきを及ぼす。言葉一つで人を殺すことも生かすこともできる。
曇鸞大師は、名号をそうとらえ、名号はまさに名となった仏ととらえたのだ。

では、我が親鸞さんは、この譬をどのように使っているのだろうか。
( 釈尊が)涅槃に入りなんとせしとき、もろもろの比丘に語りたまはく、 「 今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし。」
法に依るとは、法に十二部あり、この法に随ふべし、人に随ふべからず。
義に依るとは、義のなかに好悪・罪福・虚実を諍ふことなし、
ゆゑに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。
人指をもつて月を指ふ、もつてわれを示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。 人語りていはん、《 われ指をもつて月を指ふ、なんぢをしてこれを知らしむ、なんぢなんぞ指を看て、しかうして月を視ざるや》と。
これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもつてのゆゑに、語に依るべからず。
智に依るとは、智はよく善悪を籌量し分別す。識はつねに楽を求む、正要に入らず。このゆゑに識に依るべからずといへり。
了義経に依るとは、「 一切智人います、仏第一なり。一切諸経書のなかに仏法第一なり。 一切衆のなかに比丘僧第一なり」と。「 無仏世の衆生を、仏これを重罪としたまへり、見仏の善根を種ゑざる人なり」と。{ 以上}
と直接大智度論を引いている。
その違いが気になる。大智度論には次のように書いてある。
大きな違いは次の点である。

「 義に依るとは、義の中は無諍なり、好悪、罪福、虚実の故に、
語を以って義を得るも、義は語に非ざるなり。」
語は義の為に指すも、語は義に非ざるなり。」

つまり、大智度論は、
「 意味は言葉を持って意味を示そうとしているけれど、意味は言葉ではない。 そして、言葉は意味を指し示しているけれども、意味そのものではない。」ということだ。 言葉・言語を否定しているともとれる。
( これについては、龍樹自身の考えではなく、訳者や読み下しの問題であって、龍樹はむしろ親鸞さんと同じ言葉の捉えだったと後で知った。)
龍樹の「空」思想から親鸞の「方便」論へ (山本伸裕)を参照。PDFファイル

ところが、親鸞さんは
ゆゑに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。」
語は義の指とす、語は義にあらざるなり。」と読む。

つまり、「 言葉はすでに意味( 教えの内容)を持っている。意味は言葉そのものではない( が)。」
「 言葉は意味を指し示している。言葉は意味そのものではない( けれど)。」

と、明確な違いが認められる。親鸞さんは、言葉を肯定的にとらえている。この違いは、曇鸞大師の譬を意識しているのだろう。 名号そのものが真実を示していると。
そして、仏や祖師の言葉そのものを用いて、真実の教えの内容を示そうとしている。 仏や祖師の言葉の中にすでに真実の教えが示されているのだけれど、私たちは、指ばかり見て月を見ることができないということだろう。
私たちの言葉は口から出る言葉も含まれる。私の口から出た言葉の意味を考えると、それはまさに好悪、罪福、虚実が入り混じっている。 私は、名号という言葉にこだわって肝心の究極的な真実が見えない。

しかし、この指( 名号)がその意味を示しうるのは、ひとえに月の明かりを受けているからなのである。暗闇の中では指は見えない。
「 指によって月が示されているが、その指はまた月の光沢においてこそ指月の指たりうるのである。」
この譬は、「 究極的な真実」が名号を照らしているということを示している。

「 指し示されるもの」が「 言葉」を照らしているということがわかると、言葉も真実のはたらきであったと思い当たる。
言葉は「 究極の真実」のもつ一つのはたらきなのだ。そして、はたらきは言葉以外にある。いやはたらきは言葉以外の方が多い。そして、それを表現する手段は言葉以外にもたくさんある。

仏法で、「 はたらき」とは真如( 究極の真理)のはたらきであり、仏のはたらきであり、浄土のはたらきである。
曇鸞大師はその真如( 究極真理)のはたらきを二つの言葉で表されておられる。
方便法身と法性法身である。
法性法身とは真如そのものの体、方便法身とは具体的な形を現した体のこと。 この二つの体は、相互に互いを生じさせ、分けることはできない。
曇鸞大師の広と略の思想である。
私は、その関係を法則と応用のようなものととらえている。
広は具体化、略は抽象化と言っても良い。
広はたとえ、略は法則。広は現象、略は本質。広は言葉、略は真理。・・・
どちらもはたらきであり、相互に関わっている。
ただ、数学と違って、この場合は衆生済度の仏のはたらきである。
いや、真如そのもののはたらきである。

真如( 仏)は、言葉や行いなどの方便を使わないと指し示すことはできない。また、その真如( 仏)は具体的には様々な方便として私たちの上にはたらいている。

浄土論に、「 略して一法句に収まると説く」と述べられている。 さきに述べた国土にそなわる十七種の功徳と、 阿弥陀仏にそなわる八種の功徳と、菩薩にそなわる四種の功徳とを広とし、それらが一法句に収まるのを略とする。
どうして広と略とが互いに収まるのか。 仏や菩薩がたには二種の法身がある。一つには法性法身であり、 二つには方便法身である。
法性法身によって方便法身を生じ、方便法身によって法性法身をあらわす。 この二種の法身は、 異なってはいるが分けることはできない。 一つではあるが同じとすることはできない。
このようなわけで、 広と略とは互いに収まるのであり、 法という言葉でまとめるのである。 菩薩が、もしこの広略が互いに収まるということを知らなければ、自利利他のはたらきをすることはできない。

名義摂対というのは、 浄土論に、 「 さきに説いた智慧・慈悲・方便の三種の法門は般若をおさめ、 般若は方便をおさめる。 知るべきである」と述べられている。
「 般若」とは平等の一如に達する慧をいい、 「 方便」とはそれぞれの異なった相に通じる智をいうのである。
一如に達すれば、 心のはたらきが滅する。 それぞれの異なった相に通じれば、 あらゆる衆生のあり方をはっきりと知る。 あらゆる衆生のあり方をはっきりと知る智はすべてに応じ、 しかも無知である。 また心のはたらきが滅した慧は、 無知であって、 しかもあらゆる衆生のあり方をはっきりと知る。 だから、 般若と方便とは互いに縁となって動であり、 互いに縁となって静である。 動でありながらしかも静を失わないのは、 般若の徳であり、 静でありながらしかも動を失わないのは、 方便の力である。
そこで、 智慧と慈悲と方便とは般若をおさめ、 般若は方便をおさめるのである。
「 知るべきである」 とは、 般若と方便とは菩薩の父母であって、 般若と方便とによらないなら、 菩薩の行が成就しないと知るべきであるということである。 なぜかというと、 般若によることなく衆生救済にはたらけば、 迷いに落ちてしまう。 方便によることなく一如を観ずるなら、 自分だけのさとりの境地に安住してしまう。 このようなわけで、 「 知るべきである」というのである。

    仏暦二五五六年一月

   目次へもどる