寺院の護持問題

 昨年、組の門徒総代会が「 お寺の護持問題と課題」というテーマで研修会を持たれました。その内容は、厳しい批判と同時に現在の寺院のあり方に対するのっぴきならない問題提起でした。
 例えば、「 総代会では、真剣にお寺の護持を考えているが、住職方はいまいちではないか」という厳しいご指摘もあり、真摯に受け止めなければならないと考えました。ただ、いずれも簡単に解決できるような問題でなく、ここで答えを出すよりも問題を拡げていくことに重点をおきました。

お寺の「 護持問題」と課題

(一)子ども・若者が寺に寄らない→家族の中に仏法があるのか
(二)住職が兼職していて忙しい→毛坊主と妙好人
(三)寺の統合問題→地域共同体
(四)分かりやすい仏法の話を→生きていくための
(五)過疎化・高齢化・核家族化の問題→限界集落



(一)若者に見向きもされない寺

 若い人のお寺離れが進んでいる。過疎化に伴い若い世代は都会へ出て行き、しかもそこには仏壇がないため幼時からの仏事に関わる躾ができない。これはいずれ門徒の減少につながるのではないか。
 この問題について、本山を中心に「 キッズサンガ」といって檀家の子どもたちを寺に呼んで様々な行事をする試みが行われている。私も若い頃に夏休みなどに子どもたちを集めてミニ学校をやったことがある。種を撒くことは大事なことだ。

 もう一つ、最近は葬式と法事の仏教であり、しかも年寄りが対象のような内容で、若い人に魅力がなく寄付きがないという点も指摘されている。
 最も、これは最近の問題と言うよりは檀家制度以来の問題で、それまでの信心を得た喜びを善智識に伝え志をする関係から、葬儀年忌中心の門徒と手次坊主の関係となっている。
 教えだけではない。寺を中心とした様々な行事が生活の中から消えていってしまっている。これに対して、若い人向けの音楽やテーマを取り上げた法事を行っている寺院もある。除夜の鐘を、有志の檀家の人たちの自主的な運営で毎年の楽しみとしているような行事の活性化を行っている寺院もある。
 ところで、なぜ若い人たちが寺に寄らないのだろうか。「 法事に来ませんか」と言うと、もうちょっと年取ってからといわれる人も多い。確かに仏法は年齢と経験が必要な教えなのかもしれない。私自身の経験を考えた時に、信仰にはやはり歳をとることの必要性を感じる。
 若者に見向きされないのは、過疎地もそうである。この問題は単なる一寺院の問題と言うだけでなく「 限界集落」と言われる過疎の問題と深く関わってくる。


(二)寺院経営の困難さ

○坊様に門徒の家を頻繁に回ってほしい。密接にしてほしい。→ケアリング
○住職と門徒はもっと話し合う必要がある。
○住職が兼職にならざるを得ないため、多忙であり休暇も以前より取りにくい。

 特に小さな寺では職業として成り立たない。そこで兼業となるが、その場合、兼業の仕事の方が大変になる。本職の大変さ。ストレスも多々ある。兼業の仕事は年々厳しくなっている。仕事上での辛さをかかえている方もみえる。まさに社会の縮図である。
 社会と生活の変容によって、昔からの考え方が間に合わなくなってきている。組の役員になり手がいない。どの寺院も仕事で大変なのである。
 実は、これは今に始まったことではない。江戸時代の昔から、百姓をしながら道場を持ち、葬儀法事をとり行っていた毛坊主がその原型である。兼業していると言うということでは変わっていない。ただ、当時は村落の共同体の一員として、村の精神的な文化に大きな影響を与えていた。


(三)寺の統合問題

 後継者がいない寺院も増えてきている。やがて統合しなければいけなくなるだろう。誰が言い出すのだろうか。
 セレモニーのことを考えると、葬儀だけの関係ならどの僧侶がやっても同じである。葬儀を行うだけの寺院というものはこれから必要がなくなってくるかもしれない。都市部では逆に葬儀だけの寺院に変化していくのかもしれない。統合問題が出てくるのは、寺院の経済的な護持の問題である。
 では、なぜ当村にはこれだけ寺院がたくさんあるのだろうか。村落共同体にとって寺院とは、昔は公民館や娯楽施設も兼ねた寄り合いの場だったのだろう。この事については別に稿を改めたいと思っている。


(四)分かりやすい仏法の話を

○浄土真宗のよいところは何だろう。分かりやすく教えて欲しい。

 これは難しい。でも、これが一番大切なポイントであるような気がしている。生活に生かされないような宗教は本当に必要といえない。教えはすばらしいが、生活の役に立たないといわれることもある。
 実は浄土教の教えは自分自身のためのものであって、お寺を維持していくためのものではない。そして、念仏の教えは本来在家仏教を基本としている。
 生きていくことの価値観が多様化している現代において、念仏の教えが生きる上で本当に必要なのかを住職自らが考えなくてはいけない時なのだ。


(五)過疎化・高齢化・核家族化の問題

○高齢の人はゲートボールには行くが、寺参りには少ない。これは魅力に欠けているからではないか。
○それ以上に「 葬式のたびに檀家が一つ減る」と言われる。

 この問題は、(一)とつながってくる寺院だけの問題ではない。対策は共同体の生活にある。村おこしである。そこでは、寺院は地域の共同体の精神的なセンターとして復活してくる可能性がある。もともと、村落における寺院とはそういうものであった。

 やはり、この「 問題」は簡単に解決できるような「 問題」ではありませんでした。でも、こんな問題があるよ、こんな悩みがあるよということだけは記しておきたいと思います。

     仏暦二五五二年 八月
Counter    目次へもどる