古今伝授と国ゆずり・・・ことばのちから

 当地には大和(やまと)町という所があり、五百五十年ほど前に東常縁が宗祇に「 古今伝授」をした所として有名である。古今伝授とは「 古今集」の解釈や、歌学や関連分野のいろいろな学説を、口伝や切紙などによって、師から弟子へ秘説相承の形で伝授することをいう。
 その古今集には二つの序がある。真名序と仮名序である。真名とは漢文で、仮名とは当時でき始めたひらがな。仮名序は仮名を用いた和文で表現されている。仮名序は紀貫之が書き、和歌とは何かについて仮名で簡潔に述べている。

古今集仮名序

やまと歌は
人の心を種として
よろづの言の葉とぞなれりける

世の中にある人
事業(ことわざ)しげきものなれば
心に思ふことを見るもの聞くものにつけて
言ひいだせるなり

花に鳴くうぐひす
水に住むかはづの声を聞けば
生きとし生けるもの
いづれか歌をよまざりける

力をも入れずして天地(あめつち)を動かし
目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ
男女(をとこをむな)のなかをもやはらげ
猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり

 生きとし生けるもの全てが歌をよんでいる。そして、そのことばの力は天地を動かすと述べている。この序に述べられたことをまさにそのまま実現したエピソードがある。

 時は応仁の乱。西軍に属する美濃国守護代斎藤妙椿(みょうちん)は大軍を率いて郡上に侵入し、東軍に味方する東氏の居城・篠脇城を急襲してこれを奪った。
 当時、城主の弟東常縁(つねより)は関東に出陣していた。この悲報を聞き、生きていた頃の父を懐かしんで次の一首を詠む。
あるがうちにかかる世をしも見たりけり
                人の昔のなおも恋しき
 生きて見る落城の悲しみをこめたこの歌は、いたく人々の胸を打ち、いつしか妙椿の耳にも入った。妙椿は「 常縁はもとより和歌の友人なり、歌をよみておくり給わば、所領もとのごとくに返しなん」と語り、歌道の達人であった常縁は、十首の歌を詠んで送り届けた。
堀川や清き流れをへだてきて 住みがたき世を嘆くばかりぞ
いかばかり嘆くとか知る心かな ふみまよう道の末のやどりを
かたばかり残さんこともいさかかる 憂き身はなにと敷島の道
思いやる心の通う道ならで たよりも知らぬ古里の空
たよりなき身を秋風の音ながら さても恋ひしき古里の春
さらにまた頼むに知りぬうかりしは 行末遠き契りなりけり
木葉ちる秋の思いよあら玉の 春に別るる色を見せなん
君をしもしるべと頼む道なくば なお故郷や隔てはてまし
三芳野になく雁がねといざさらば ひたぶるに今君によりこん
吾世経んしるべと今も頼むかな 美濃の小山の松の千歳を
明建神社の杉から見る篠脇城の桜

 この歌を読んだ妙椿は心を打たれ、返歌を送って和議が成立した。文明元年(一四六九)五月、京都を舞台に返還式が行われ、篠脇城と領地は返されることになった。
 司馬遼太郎氏は、「 歌十首で城と領地をとりもどしたというのは、それを原稿料だとすれば東常縁は古今でもっとも高い稿料をとったことになる。」と「 街道をゆく(室町武家のこと「 郡上街道」)」にこのエピソードを紹介している。斉藤妙椿も領土を拡げる欲だけではなかったことと、応仁の乱の正体をつかんでいたのではないかと想像される。

 この話は、まさに古今集の仮名序にある、
力をも入れずして天地を動かし
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ
男女のなかをもやはらげ
猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり
の精神を実践したものであった。しかも、それは応仁の乱のことであった。

 武士の政権(幕府)は血を血で洗う闘争であった。東常縁は文人でもあるが武人として幾多の戦もしている。
 また、郡上東氏の初代の胤行(たねゆき)は、承久の乱で幕府方として戦い、恩賞で美濃国山田庄の新補地頭に任ぜられた人物である。
 彼は、幕府内の権力争いから一族を討たされたことがある。もちろん一所懸命の御家人であるが、単なる武人ではなかった。鎌倉にあって、源実朝に仕え、和歌を学んでいた。京へ上ったときには藤原定家の門をたたいて歌の道を尋ねている。また当時関東にいた親鸞の教えに帰依したと伝えられている。
 このエピソードが今に伝わっているのも、ことばの力が武の力を凌ぐこと、そして平和を求める人々の願いであったのだろう。


 790年前はるばる千葉から伝えられた明建(妙見)神社の七ヶ日祭り

 新緑の篠脇城
     二〇〇九、四
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