鷲狩り伝説についての一考察
高鷲村村丸ごとミュージアム資料 1999年9月5日 上村文隆
1、はじめに
伝説は過去のものといいうイメージがありますが、現代においても日々作られています。(資料@)その場合、その伝説を事実にのっとっていないということで否定してしまうのではなく、民衆のどのような願いを反映しているのかという視点で見ると、その裏に隠された本当の事実を却って鮮明に示す場合もあります。
ここで私は歴史的な事実に即しながら、そういった願いを読み取り、そして私達自身の新しい伝説を積極的に創っていくことを試みたいと思います。それはまた私達の未来をも創っていくことになるのだと考えています。
2、鷲狩り伝説(鷲見氏の由来伝説)には、3つの伝説が伝わっていること
A、鷲狩り伝説(鷲見大鑑、濃北一覧)(資料A)
B、これは鷲が赤子をさらってきて(貶せられて)それを大屋氏が育て,長じて鷲見氏(皇族)になったという伝説で、鷲がさらってきた事は作者(三島勘左衛門)自身が一笑に付している。(鷲見白山神社由緒)(資料B)
C、鷹司卿の救出伝説(鮎走白山神社の鷲見大鑑) 天皇の叔父と鷹司卿という貴族が流されてきて、それを捜し出したのが鷲見頼保であるという伝説。その部分が違うだけで後はA説とほとんど同じ。(資料C)
3、これらの伝説についての幾つかの疑問
ア、八幡神社との関係 八幡町の由来にもなった鷲の羽を祭った八幡神社と鷲見氏との関係は?白山系伝説 ・高賀山系伝説 ・八幡系伝説
イ、鷲見郷と山田庄・芥見庄・岩滝郷・井深庄との関係は? (岐阜市史 資料D)頼保が与えられた知行地は美濃国芥見庄鷲見郷となっています。この「芥見」という地名は幾つかの文書に出てきます。(資料D)
昔、鷲見郷は芥見庄と言っていたのでしょうか。芥見庄(岐阜市)は承久二年の文書にも出ている古い荘園であり、また、鷲見郷は山田庄の一部と考えられます。
一方、「岐阜県の地名」には美濃国芥見庄および鷲見郷を永代下賜…と書いてあります。ところがその後の文献には芥見庄のことは出てこないのです。
ウ、承久の乱で鷲見郷はどうなったのか?
承久の乱の後、山田庄は東氏に与えられ、東氏は新補地頭として千葉から山田庄に入って来ています。
では、山田庄の一部と思われる鷲見郷はどうなったのでしょうか。
新補地頭といっても領家との関係があり、本格的に郡上に勢力を張るには室町期まで待たなけ
ればなりませんでした。当初は鷲見氏と東氏は協力しあっていました。
間に緩衝地帯として長滝寺領があったことが大きいと思われます。
エ、鷲狩り伝説はいつ頃作られたのか。作者は誰か。どんな意図で作ったのか。
4、山田庄の領主と地頭
私達は永代知行というとその土地をもらったと考えますが、鎌倉時代には鷲見郷は荘園で(資料D)、従って荘園の領主(領家)がいるのです。鷲見氏はその荘園を管理する荘官であったとすると、では領主は誰だったのでしょうか。
これは網野善彦氏の研究で山田庄は宣陽門院領(皇室女院領)であったことが明かになっています。(資料EF)
ところで、承久の乱で東氏が山田庄の地頭になったことは有名ですが、領主はやはり宣陽門院です。ではその前の莊官(下司)は誰だったのでしょうか。これについては、白石博男氏の研究(郡上史談)(資料H)があり、山田次郎重忠と推定しています。その理由として鷲見郷を競望した小島三郎重茂(岩滝郷本主)が山田重忠の従弟であったことをあげ、その一族で美濃の山田庄や岩滝郷を所領していたと考えられるとしています。(彼らは承久の乱で没落してしまいました。)
私は小島三郎が競望した理由は、岩滝郷と芥見庄との間に何らかの関係があったからではと考えました。調べて見ると「芥見庄内岩滝郷の領家・地頭両職を満殊院門跡竹田僧正慈厳…」(後醍醐天皇綸旨)という文献や資料Eの様な関係があったことがわかりました。つまり地理的にも芥見庄と岩滝郷は接しており芥見庄の一部とも考えられるのです。ここで、伝説の「美濃国芥見庄鷲見郷」というのが少しつながってきました。
5、伝説の年代を年表にまとめると
1160 永暦元年 二条天皇 頼保検非違使尉になる
1175 安元元年 高倉天皇 鮎走文書 芥見左少弁(資料D)
1185 文治元年 後鳥羽天皇 頼保向鷲見城築城
1192 建久三年 宣陽門院領となる(上西門院から受け継ぐ)。頼朝征夷大将軍となる。
1201〜1203 土御門天皇 建仁年間 小島三郎の濫妨(資料G)
1204 元久元年 頼保死(資料D)
1220 承久二年 順徳天皇 八幡神社創建、芥見庄権大僧都承信
1221 承久三年 御堀川天皇 承久の乱 家保の書状、東氏山田庄の地頭
1250 建長二年 後深草天皇 幕府鷹狩の禁止、承久没収地の遺漏を処分
1251 建長三年 頼保鷲見郷をもらう(資料AB)
1252 建長四年 宣陽門院領を鷹司院(後堀川中宮)に譲る
1253 建長五年 井深荘鷹司院へ(資料E)、向鷲見城築城(資料AB)
ここで注目していただきたいのは、鷹司院です。伝説Cの天皇の叔父と鷹司卿の話と山田庄が鷹司院の所領になったのはわずか一年の違いです。鮎走文書は頼保=家保と書いています。
さて、ここで先ほどの芥見庄との関連から考えてみると、領主ははっきりしませんが、鮎走白山神社由緒にも荘園の領主に貢物として一人につき毎年布絹三疋を納め、芥美殿に貢物する使いを組頭というと書いてあります。とすると、鷲見郷から領主に収める貢物は芥見まで持っていき、そこで収集されて都まで持って行ったものと考えられます。地理的にも郡上からは芥見を通らないと都へは上れません。
そうすると、承久の乱までは芥見庄(岩滝郷)の管理をする下司であったのは山田庄の山田次郎重忠の一族小島三郎等で、彼等が鷲見郷を競望したのは、院の勢力下にあった美濃の下司として勢力を張ろうとしていた山田一族の企みだったのでしょう。もちろん鷲見氏もその領主から任命された下司だったのですから、地元の莊官どうしの争いとなったのです。
それに対して、鷲見氏は鎌倉に頼ります。当時の美濃で承久の乱で鎌倉方についたのは鷲見氏と遠山氏だけでしたが、鷲見氏が鎌倉方についたのも所領をなんとか守ろうとしたからでしょう。承久の乱で山田一族はほとんど討ち死にします。そしてその所領は分断されて、新補地頭が任命されます。その時、芥見庄と鷲見郷も分断されたのでしょう。
承久の乱以後も、地頭とはいえ領家に貢物を納めることはしなくてはなりませんでした。ですから、鎌倉から地頭として認めてもらうと同時に、領家に対しても何らかの関係を保たねばならなかったでしょう。それが、鷹司の伝説となったのではないでしょうか。鮎走文書は後堀川天皇とはっきりと特定している点も興味があります。
また、実際に鷹狩りの鷹を献納したことがあったのかもしれません。鎌倉や領家への目配りをしながらこの時代を生き抜くには、よほどの情勢を見ぬく目が必要だったと思います。鷲見氏がその後の建武の時代に足利氏についたのは正しかったと言えます。
長善寺文書には、その後足利氏について太平記の戦乱を活躍した鷲見氏への足利氏からの感状の写しが載っています。泣く子と地頭には勝てぬと言いますが、鷲見氏は所領を安堵する為に、各地を転戦し御家人として認めてもらう涙ぐましい努力をしたのであります。
6、2つの伝説は同一の作者が書いた!
私は、今回の勉強で色々なことを発見しずいぶん楽しみました。山田幸男先生と話していて気がついたことですが、資料Aの鷲の「大石打といへる羽根(タカ、トビの尾を押し広げたとき、両端に出る堅い羽で矢羽根として用いられた。)」が、親王救出伝説の方(資料B)は「長柄の鑓に不思議なるかな大石付(槍の石突)と申すもの更になし」と書いてあるのです。この二つの大石付(打)が出てくるのはそれぞれここだけで、なぜこれが出てくるのかはわからなかったのです。
うちへ帰って親父と話していて、この2つの説の作者は同一人物ではないかという結論になりました。その理由は、親王救出伝説の「鑓の大石付(突)」がなくなっていて、替わりに鷲狩伝説の「大石打の羽根」となって流れていったと読めるからです。つまり、この作者は巧妙に2つの説がつながっている事を言っているのです。作者はこの大石付(打)という言葉入れることによって、これを読み解いてみよと後世へのメッセージとしたのでしょう。そうなると、この伝説の作者はほぼ特定できるのではないでしょうか。
参考資料
@「頼保公記念堂案内図」の看板、A濃北一覧・巻の五、B高鷲村史「市兵衛文書」、C美濃国郡上郡鷲見大鑑(鮎走白山神社文書)、D高鷲村史「鷲見氏来村について考察」、E岐阜県史「第五章 山田庄、芥見庄」、F図説郡上の歴史p23、G岐阜県史「鷲見氏」、H白鳥町史「東氏の来郡」