聴聞

不自由な耳に聞こえる声

    聴と聞について

 耳がご不自由なのに、寺の法事には必ず出席された方がいました。
正信偈は一緒に唱えることはできましたが、ある時、話の中身を振ってみたことがあります。
「 どうですかKさん。」
「 わしは耳が遠いでな。」
と、お答えになりました。
「 話が聞けないのに、何を聞いてみえるのだろう?」
そんな不遜な疑問が湧いてきたのです。実際に、寺に参られる方でほとんど聞こえない方は多いのです。
 ある時、法話の内容とはまったく違うことを突然話しだされたお婆さんがみえました。昔のことと勘違いし、懐かしさのあまり声を出されたのです。
「 法話の内容を一生懸命考えても、聞こえない人が多いんだから情けないな。」・・・

 実に情けないことです。聞こえない方が、ではありません。そう思ってしまう私が、情けないのです。
私の内容のない話なんか聞いたとしても、大したことではありません。
でも、聞こえない耳で何を聞いてみえるのだろうか。不遜な私はこんな疑問さえ持ってしまうのです。

 かって、英語の授業でhear とlisten toの二つの「 聞く」という言葉を習いました。
hearは意識しないで聞くこと。listen to は意識して聞くこと。だから英語の勉強ではlisten toが大事だと習った覚えがあります。
これに対応する日本語(漢語)は聴と聞です。
hear=聞。 listen to=聴でしょうか。
 なぜlisten toが大事なのかはお分かりですね。意識して聞かなければ頭に残らないからというわけです。

 この「 聴と聞」を、親鸞聖人は明確に区別しています。
「 聴」はユルサレテキク。「 聞」はシンジテキクと。
仏「 しっかり聴けよ。」私「 つつしんで聞きます。」

 ところで、浄土真宗では 「 名号を聞く」といいます。
「 聴く」ではなく、「 聞く」なのです。さらに、「 名号」を聞くなのです。
これはどういうことでしょうか。

 名号とは「 南無阿弥陀仏」です。お念仏です。
そうすると疑問が出てきます。「 念仏を称(とな)える」ではなく、なぜ「 名号を聞く」というのか?
という疑問が。  

『「 聞其名号(もんごみょうごう)」というのは、[(私たちが)本願の名号を聞く]と仰せになっているのである。 聞くというのは、如来の本願を聞いて、疑う心がないのを「 聞」というのである。また聞くというのは、信心をお示しになる言葉である。 「 信心歓喜乃至一念」というのは、「 信心」とは、如来の本願を聞いて疑う心がないことである。』
           「 一念多念文意」より
 親鸞聖人のお言葉ですが、「 仰せになっている」のは誰でしょうか。そして、信心をお示し下さるのは誰なのでしょうか。
もちろん阿弥陀如来です。
阿弥陀如来が、「(私たちが)本願の名号を聞く」と仰っているのです。阿弥陀仏が、「如来の本願を聞いて疑う心のない信心」を示されているのです。
「 聞く」という私の側の行為が、仏の「 聞けよ」という呼びかけに転換しているのです。

 如来は、我が名を称(しょう)せよという行を人間に与えました。
 それは、私がその名を称するその時だけ、私にとって仏が存在するからです。称さなければ、私には仏は存在しないのです。
 そして、私の声を仏は(まちがいなく信じて)聞いておられます。その声は仏に聞こえるだけではなく私にも聴こえてきます。今度は仏からの呼び声として。

 称えるのは自力の行。そして、聞くは他力の行。不自由な耳でも、仏の呼び声は聴こえます。仏の方から呼びかけてくださるのですから聴こえないはずはありません。Kさんは仏の声を聞いておられたのです。称名という阿弥陀如来からの呼び声を。

    合掌 なまんだぶ

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