「ノアの洪水物語」と「三車火宅物語」

     東洋の英知

 TVを見ていたら、大震災の特集で山折哲雄さんが話をしていた。その中で、旧約聖書と仏典( 法華経)を比較しながら、「 ノアの洪水」と「 三車火宅物語」の比喩を語っていた。

 実は、東日本大震災が起こったとき、これはどういうことなのかわけがわからず、ショックでしばらく何も手がつかなかった。
 ところが、時間がたつと震災そのものを対象化しようとしている自分に気がついた。被災されている方たちのことをしっかりと受けとめることができない自分にいらだちながら。この対象化することが良いことなのかどうかは私にはわからない。

 旧約聖書には「 ヨブ記」や「 ノアの洪水」等の話がある。旧約聖書では災害を神の御わざととらえている。特にヨブ記の主人公のヨブは神から( 実際に行なうのはサタンであるが)の過酷な試練に対して、生まれてきたことは呪うが、それまでの神に対する自らの行いを悔い改めよという友人たちの助言に対して、彼は自分は決して間違ったことをしていないと後悔しない。神と彼との関係は実に不思議なのだ。
 ところが仏典にはこのような話が少ない。山折さんの対比に驚いて、改めて「 三車火宅の物語」を読み直してみた。

○三車火宅( さんしゃかたく、譬喩品)

 ある時、長者の邸宅が火事になった。中にいた子供たちは遊びに夢中で火事に気づかず、長者が説得するも外に出ようとしない。そればかりか長者が中に入ると遊んでもらえるとばかりに逃げていく。そこで長者は子供たちが欲しがっていた「 羊の車(ようしゃ)と鹿の車(ろくしゃ)と牛車(ごしゃ)の三車が門の外にあるぞ」といって、子供たちを導き出した。その後にさらに立派な大白牛車(だいびゃくごしゃ)を与えた。
 この物語の長者は仏で、火宅は苦しみの多い三界、子供たちは三界にいる一切の衆生、羊車・鹿車・牛車の三車とは声聞・縁覚・菩薩( 三乗)のために説いた方便の教えで、それら人々の機根( 仏の教えを理解する素養や能力)を三乗の方便教で調整し、その後に大白牛車である一乗の教えを与えることを表している。
 山折さんは、ノアの箱舟は「 犠牲と生き残りの思想」で、「 全てを救う英知」が三車火宅の考えであるといわれていた。
「 神が地上に大洪水をもたらすと予言し、選ばれた人間と動物だけが救命ボートに乗って助かった。その陰には多くの犠牲者がいた。西洋の歴史や文明は、生き残りのためには必ず犠牲が伴うという観念に基づいて形成されてきた。」
 確かに、ノアの洪水は、一部の正しい人を救うが、ほとんどの人は滅ぼされる。
 ヨブ記の方はもっと悲惨であるが、そこには人間の思いに対して神の大きさが強調されている。

 法華経を読んでみると、三車火宅の物語の方は、長者の息子たち( 私たち衆生)は迫ってくる災害に対して、全く危機も感じていないし無知な存在である。それを、子どもたちの「 欲望( 興味)」を利用して救うという方法を取っている。
 つまり、煩悩を認めている。子どもたちが正しいのかどうかなどは問題にもしていない。それが仏の慈悲なのだ。でも、全てを救うという仏の極めて大きな家父長的な慈悲は気になる。この子たち( 衆生)は、やがて自身で親の( 仏の)慈悲に智慧に気づくことがあるのだろうか。もちろん三車が三乗の譬えであり、やがて一乗になるとしても、子どもたち( 衆生)はそれを自覚しているわけではない。

 この比較から色々なことを学ぶことができる。「 ノアの洪水物語」は救われる方に正しくあれというメッセージを出している。
 一方の「 三車火宅物語」は救われる方に一切の条件は出してない。そればかりか救いに来た長者から逃れようとすらしている。それが火宅の世界に生きている衆生の姿だと認めている。そればかりが煩悩( 欲望)を利用してまで助けようとしている。

 山折さんは、そこに全てを救おうという英知を見る。誰かを犠牲にするということに堪えられないのが元来の東洋の思想なのだ。これが仏の大慈悲なのだが、そこには人間の弱さをすでに前提にしている発想がある。

 でも、これは大事な考え方ではないだろうか。これは煩悩のとらえ方の最も有効な手立てである。人間の弱さを前提にし、人は欲望( 煩悩)を持った存在であることをわかった上で、対処するという智慧である。
 それは「 原発事故」を考える上でも大きなヒントを与えてくれるのではないのだろうか。


    仏暦二五五五年( 西暦2012年)五月

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