浄土教の美しい思想・・・還相の菩薩

地蔵菩薩
 はるか昔、インドに大変慈悲深い二人の王がいた。一人は自らが仏となることで人を救おうと考え、一切智威如来という仏になった。
 だが、もう一人の王は仏になる力を持ちながら、あえて仏と成らず、自らの意志で人の身のまま地獄に落ち、苦悩し迷い続ける全ての魂を救おうとした。その名を地蔵という。
 「 十界論」では声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の順で菩薩は如来に次ぐ高い見地に住するが、地蔵菩薩は「 一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」と決意し、菩薩界にとどまらず、六道( 地獄・ 餓鬼・ 畜生・ 阿修羅・ 人間・ 天)を自らの足で行脚して、救われない衆生や親より先に世を去った幼い子どもの魂を救いながら旅を続けている。

 幼い子どもが親より先に世を去ると、親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいないことから、三途の川を渡れず賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に続けなければならない。お地蔵さんはそういう子ども達を守ってやり、念仏を教え、成仏への道を開いていく。
 だから地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩である。この地蔵菩薩とよく似た名の菩薩が法蔵菩薩である。

法蔵菩薩
 今よりはかり知ることのできないはるか昔に、世自在王仏という仏が現れた。一人の国王がいた。彼は、世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、この上ないさとりを求める心をおこし、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。
 世自在王仏の指導のもと、法蔵菩薩は、悩み苦しんでいる全ての人を救おうと四十八の無上の誓願と行を選び取り、そして限りない修行に励んだ。
 貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、全てのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍び、言葉はやさしく、相手の心を汲み取って受け入れ、様々な修行をして、全ての人に功徳を与えた。空・ 無想・ 無願をさとり、はからいを持たず、数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させた。計り知れない年月の間、ありとあらゆる人になり、全ての人に利益( りやく)を与え、様々な修行をして功徳を与えた。
 そして、ついにさとりを開かれ仏となられた。名を阿弥陀という。四十八願の中にある、無限の空間と無限の時間を越えてあらゆる衆生をもらさず救うという意味で名づけられた御( み)名である。( 第十二・ 十三願)

願作仏心と度衆生心
 四十八願はすべて仏の大慈大悲から生まれた。
第一願
「 わたしが仏になるとき、わたしの国に地獄や餓鬼や畜生のものがいるようなら、わたしは決してさとりを開かない。」
第十一願
「 わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が正定聚に入り、必ずさとりを得ることがないようなら、わたしは決してさとりを開かない。」
 ところが、この誓願を論理的に考えると、法蔵菩薩は決して仏となることができないのではないかという疑問が浮かんでくる。この娑婆の世界でそのようなことが可能と思われないからである。そもそもこの私はさとりを得ることができていない。だから法蔵菩薩はさとりを開くことはできない。
 とすると、どこか別の世界に理想の世界を創るということになるが、それでは現実味がない。単なるユートピアになってしまう。つまり法蔵菩薩は「 永遠の菩薩」になってしまう。そんなことを考えていた。

 その迷いから抜け出る第一歩は、本願成就の言葉であった。法蔵菩薩が阿弥陀仏となっておられるのだから、法蔵菩薩の四十八願は成就されているのだと。
 ところが、煩悩熾盛 の私はまだ納得できない。それなら、法蔵菩薩はなぜ現れたのか。弥陀仏だけで十分ではないか。四十八願はなぜ建てられたのか。「 わたしの国には地獄や餓鬼や畜生のものがいない。」「 わたしの国の天人や人々は正定聚に入り、必ずさとりを得ることができる。」というだけで十分ではないか。

 この疑問は、どうやら「 仏になること」と「 人々を救うこと」の間にある大きな問題なのだ。人類の悲願である課題なのだ。
「 自分は仏に成りたい、仏になりたいが仏になるには衆生を救わなければ仏になることはできない。自分が煩悩具足の凡夫でありながら、自分が生死大海に沈んでいながら、おなじ衆生を救うことができるのか。」
こう言い替えられたのは曽我量深師である。
「 一切衆生が仏にならぬ限り自分は仏に成ることができない。また、自分が仏にならない限り一切衆生を助けることはできない。」
この矛盾を、法蔵菩薩はどう解決したらいいのか。

願生浄土の願い
 その答えも誓願の中にある。この二つの願いを満たすのが「 願生浄土」の願いである。法蔵菩薩はこの矛盾を解決するために、一切の衆生が仏になり、一切の衆生を救うことのできるところ=浄土に生まれさせたいという願いを選び取られた。
浄土の大菩提心は願作仏心( まことの人になりたいと願う心)をすすめしむ
すなわち願作仏心を度衆生心( すべての人を救いたいと願う心)と名づけたり     「 正像末和讃」
 法蔵菩薩がまことの人( =仏)になりたいと願い、全ての人( =十方衆生)を救いたいと願ったように、浄土に往生した全ての人がまことの人になりたいという願いを持つ。それが、全ての人を救う心である。だから、それは浄土に生まれたいという「 願い」と「 行」に昇華する。
設我得仏十方衆生
  すべての人が( を)
至心信楽欲生我国( 第十八願)
  心から信じて、わが国に生まれ( させ)たいと願う
至心発願欲生我国( 第十九願)
  心から発願して、わが国に生まれ( させ)たいと願う
至心回向欲生我国( 第二十願)
  心から功徳をふりむけて、わが国に生まれ( させ)たいと願う
 法蔵菩薩はこの願生浄土の願いを私たちに呼びかける。そして、願生浄土の願いはわたしたちの願いとなる。願いそのものが大悲大慈であり、さとりである。
 だから、法蔵菩薩は過去の人ではない。今現に私たちの周りに、私の中にいて修行をされている。その意味では、法蔵菩薩はわたし達がこの苦の世界から抜け出さない限り菩薩となって私たちに永遠に寄り添い続けている。地蔵菩薩のように「 永遠の菩薩」となって。

還相の菩薩
 因果の法則では、法蔵菩薩の願と修行によって阿弥陀仏の浄土ができたわけだから、法蔵菩薩が原因で、弥陀仏の浄土は結果である。そして今、阿弥陀仏はわたしたちを救うために働かれている。
 ところが、
仏について二種の法身まします、ひとつには法性法身とまうす、ふたつには方便法身とまうす。法性法身とまうすは、いろもなし、かたちもましまさず。しかればこころもおよばす、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は「 尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまえり。
                      「 唯信鈔文意」

弥陀成仏のこのかたは
  いまに十劫とときたれど
  塵点久遠劫よりも
  ひさしき仏とみへたまふ
            浄土和讃

 と言われるように、真如の阿弥陀如来が法蔵菩薩となって示現されたととらえる思想がある。それは、時間をさかのぼり、因果を逆転させるが、浄土教の実に美しい思想である。

 法蔵菩薩のいない阿弥陀仏では、阿弥陀仏のはたらきがイメージできない。それは、イエス・ キリストのいない神と同じである。
 阿弥陀仏のはたらきは、わたしたちには法蔵菩薩のはたらきとしてイメージされる。四種の門に入りて自利の行を成就し、第五門に出でて利他の行を成就した菩薩として。人類の苦悩を背負い、四十八の誓願を生み出し修行した菩薩として。
 四十八願は大慈悲である。人類の願いである。だから願力として私たちにはたらく。
法蔵とは
どこに修行の場所があるか
みんな私の胸のうち
なむあみだぶつ     ( 栃平ふじ)
 行者の菩提心が因位の菩薩となり、阿弥陀の仏果が因位の菩薩を生む。弥陀の慈悲が因位の菩薩を生み出し、菩提心を生み出す。だから、法蔵は私たちになる。

 そう考えると、全ての存在が還相の菩薩となる。イダイケもアジャセもダイバダッタも真実の教えを示すために現れた菩薩であった。そして、ふりかえって見れば往かれた方も還相の菩薩であった。

われもと因地にありしとき
  念仏の心をもちてこそ
  無生忍にはいりしかば
  いまこの娑婆界にして
念仏のひとを摂取して
  浄土に帰せしむるなり
  大勢至菩薩の
  大恩ふかく報ずべし

    以上大勢至菩薩  源空聖人御本地なり。

すべて、
法蔵菩薩の第二十二願の誓願であり、選択( せんじゃく)の悲願であった。

     二〇〇九.四 
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