周利槃特(しゅり・はんどく)の悟り

愚痴に帰る

一、学校でなぜ掃除をやるのか

 アメリカでは多くの小学校で掃除をしない。授業中に子どもが吐いた時も、教員がやらないで掃除専門の人を呼んで掃除をさせるという。それはなぜだろう?
 理由は大きく二つ。一つ目はうちの子を掃除人にさせるつもりはないと言う保護者の反対。もう一つは掃除をする人たちから、私たちの仕事を奪うのかと抗議が出る。

 日本ではなぜ学校で子どもが掃除をやるのだろう。いや日本だけではない。東アジアの学校ではほとんど子どもたちが掃除をやっている。
 映画「 ガンジー」を見たとき、ガンジーが妻にトイレ掃除を命じる場面があった。しかし、彼女は肯かなかった。彼女の抵抗のもとは、インドでは便所掃除は最下級の階層の人たちのやる仕事であることであった。その人たちの仕事を奪わないという気持ちもあったのかもしれない。

 では、東アジアではなぜ学校で掃除をするのだろうか。いろいろな理由が考えられるが、仏教の次の物語はこのことに大きな影響を与えたと思われる。それはシュリハンドクの話である。

二、周利槃特(シュリハンドク)の修行

 シュリハンドクとは、『 仏説阿弥陀経』に、お釈迦様の弟子たちの名の七番目に周利槃陀伽(しゅりはんだか)と出てくる人のことである。十大弟子の一人に数えられる方であるが、この人はいわゆる勉強のできない人であった。
 できないどころか、自分の名前も書けない。名前を呼ばれても周りの人から言われて自分のことだとやっとわかるほど。だから、お釈迦様の教えを聞いても理解できない。すぐに忘れてしまう。でも、悟りを求める心は人一倍あった。そして、わからなくてもお釈迦様の話をぼんやりと聞いているだけで彼は幸せであった。

 周梨槃特(シュリハンドク)は兄に誘われてお釈迦様の弟子となった。この兄は聡明であったが、彼は一つの句さえも記憶できなかった。修行の作法や方法も覚える事ができなかった。何年も修行を続けるのだが、彼は自分の才能の無さに絶望し、教団を去ろうとする。しかし、お釈迦様の「 自らの愚を知る者は真の知恵者である」という言葉を聞いて思いとどまる。

 でも、彼にはどの修行も無理であった。そこで、お釈迦様が彼に与えた修行は、掃除であった。一本の箒を与え、「 垢を流し、塵を除く」と唱えさせ、精舎を掃除させた。彼は一心に掃除をした。

 何年もたったある日、シュリハンドクはお釈迦様に「 どうでしょうかきれいになったでしょうか?」と尋ねた。お釈迦様は「 駄目だ。」と言われる。どれだけ隅から隅まできれいにしてもまだ駄目だといわれる。シュリハンドクはそれでも黙々と掃除を続けた。
 ある時、子どもたちが遊んでいてせっかくきれいに掃除をした所を汚してしまった。シュリハンドクは思わず箒を振り上げ怒鳴った。「 こら!どうして汚すんだ。」
 その瞬間、彼は本当に汚れている所に気がついた。

 それ以来、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り、ついに仏の教えを理解して、阿羅漢果を得たとされる。そして、お釈迦様はシュリハンドクが一生懸命に掃除をしている姿をいつも手を合わせて拝んだという。

三、心はきれいになるか

 シュリハンドクはどのようにして心の掃除をしたのだろうか。次々と生じてくる心の塵や垢(煩悩)をどのように掃除したのだろうか。
 まず思い至ることは、自分の心はきれいにしたと思ってもまた汚れることである。でも、これは掃除と全く同じなのだ。
 私たちが掃除をするのは、汚すことを前提にしている。でも、どうせまた汚れるからといってほったらかしにはしない。それはなぜだろうか。

 次に使う人のためとか自分の続ける意志を高めるためではない。掃除を続けることそのことが大事なことなのだ。心の垢を流し、心の塵を除くことをし続けること。これがシュリハンドクの行ってきたことなのだ。
 修行とはそのようなものではないのだろうか。何かだんだんと上を目指して階段を上がるような修行を考える人もいるのかもしれない。しかし、シュリハンドクのように、汚れたらまた掃除をするということは、私たちの生きる姿を表わしてはいないだろうか。

 法然上人は「 愚癡に還って極楽に生まれる」といわれた。

 親鸞さんは

よしあしの文字をもしらぬひとはみな
 まことのこころなりけるを
 善悪の字しりがほは
 おほそらごとのかたちなり
          正像末和讃
と言われた。

 シュリハンドクの話は、人間の「 知恵」は悟りを得るためには逆に妨げになるということを示している。

    仏暦二五五三年十二月
Counter    目次へもどる