無量光…十二光

法蔵菩薩の修行

一、法蔵菩薩の修行

阿弥陀仏はもとは法蔵という人間であった。
国王であったが、全ての人の悩み苦しみを知り、
それをどうしたら抜くことができるのか悩み、
世自在王仏の所へ行って、それを解決するための方法を教えてもらった。

その方法とは全ての人が救われる浄土を建立することであった。
法蔵菩薩はすべての人が救われる四十八の誓願を成就するために、
そこから長い長い修行に入る。
そしてその修業は今も続いている。
法蔵菩薩は私と一緒に修行をしてくださっている。
法蔵とはどこに修行の場所あるか みんな私の胸の内
                              栃平ふじ

二、法蔵菩薩と共の修行

私たちの苦しみとは何か。苦の根源は人間の持つ煩悩(無明)にある。
その煩悩は大きく3つに分けられる。 一つはおろかさ(愚痴)、二つ目は貪り(貪欲)、三つ目は怒り(瞋恚・シンニ)。
おろかさ(痴)とは、自分自身や周りや先が見えないことをいう。
むさぼり(貪)とは、物欲・財欲・名誉欲が限りないことである。
いかり(瞋)は、人を自分の思うとおりにしようという欲望から生ずる。
思い通りにならなかったときに怒りが生ずるからである。

法蔵菩薩の願いはこの煩悩をどうしたら除くことができるのかということであった。
しかし、すべての人が救われるためには、その方法は簡単でなくてはならないと同時に、本質的で根源的なものでなくてはならない。
その方法とは、「我が名を呼べ」というだけであった。

法蔵菩薩の誓いはすべて「もし成就しなかったら私は仏にならない」となっている。
それは、私たちが往生しない限り法蔵菩薩は仏にはなれないことを示している。
だから、全ての人を救うためには無量の寿命が必要となる。

三、無量光のはたらき・・・弥陀如来名号徳

法蔵菩薩は、浄土とは無量光明土であり、自身は光の仏になることを誓われる。

この光が私たちの愚かさにあたるときその光は智慧光となる。
智慧光は私たちの愚かさを照らす。
私たちは自身の愚かであることを知らされる。
しかし、それは最も智慧が溢れたことなのだ。

私たちの欲の姿には清浄光となってあたる。
私たちの欲は娑婆の様々な汚れが因縁となって生じてくる。
そこにあたる光は汚れない光である。
この光は汚れている私たちの姿を照らし、汚れをはっきりと示してくれる。

私たちの怒りの姿にあたる光は歓喜光である。
この光は人を思い通りにしようと思う心を照らし出す。
そこに後悔が浮かび、慚愧の心が生じ、そして懺悔となる。
しかし、それを知らしめた光とそれまでのすざまじい姿を対比するときに心には喜びが浮かんでくる。
だから歓喜光なのだ。

四、名号のはたらき

これらの光も法蔵菩薩の誓願の中に含まれている。
親鸞さんはこれらの光を不可思議光と呼ばれた。
ただ、光があたるためにはきっかけが必要となる。
それが名号である。
阿弥陀仏は名号となった仏なのだ。
念仏によって光明がおこり、光明によって念仏が出てくる。
浄土に往くためには念仏と大信心だけでよいと言われた。
念仏は浄土と交信できる唯一のコトバなのだ。

光明名号顕因縁

善導大師はただ独り
これまでの誤った説を正して仏の教えの真意を明らかにされた。
善悪のすべての人を哀れんで
光明と名号が縁となり因となってお救いくださると示された。
「本願の大いなる智慧の海に入れば
行者は他力の信を回向され
如来の本願にかなうことができたそのときに
韋提希と同じく喜忍・悟忍・信忍の三忍を得て
浄土に往生してただちにさとりを開く」

    仏暦二五五七年(西暦二〇一四年)三月

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