裏と表の話 ・・・ 機法一体

一、マジック法
   今回のテーマは、「 裏と表の話」。私は仏法に少しでも興味を持っていただく為に、法話の中にマジックを取り入れています。ではマジックをはじめます。・・・顔の裏・トランプ6と4・オリガミ六角形・矢印
 さて、この裏と表の違いは何でしょうか?(「 幸い」と「 辛い」を裏表に書いたカードを示して。)

二、【 辛いと幸い】
 「 辛いと幸いは何処が違うか」
 漢字ではたった一本、横棒が有るか無いかの違い。この一本が大事なんだとか、一本多いから幸いが良いというのではありません。逆に一本取れば、辛いになります。でも、それは相対的なもの。
 仏法では、「 辛い」も「 幸い」も一枚の紙の裏表。どちらが上でどちらが下とか、どちらが良くてどちらが悪いのかとは区別しません。同じことの違った表れです。ある人にとっては「 幸い」でも、別の人にとっては「 辛さ」であることは多々あります。(人間万事塞翁が馬)
 しかし、私たちはそう見ることができません。「 幸い」を求めて苦しみ、「 辛さ」から逃れようと苦しみます。所詮はそれらは幻想にしか過ぎないと頭ではわかっても、身体はもだえ苦しむ。それが私たちの姿であります。

 「 幸い」も「 辛い」も同じことの違う表れなのですが、これを逆にとらえると、「 どんなものごとにも二面性がある」ということになります。

三、どんなことにも二面がある【 長寿の楽しみと八難の長寿天】
 まず、長寿ということについて。長寿は「 幸いと辛い」のどちらでしょうか?そうですね。単純に「 幸い」であるとも言えませんね。長生きをして幸せだったと同時に、長生きのおかげで辛い目に遭ったともいえるのです。後期高齢者医療制度などを見てもわかりますね。必ず二面があるのです。

 仏法には、三途八難という言葉があります。三途八難とは、仏が見えず仏法を聞くことができない境界が八つ有るという話です。
(一)地獄  (二)餓鬼  (三)畜生
   [以上三悪道(三途)は苦痛が激しいため仏の声が届かない]
(四)長寿天 [長寿を楽しんで求道心が起こらない]
(五)辺地 [楽しみが多すぎて人間の欲望がうずまいている世界]
(六)無感覚  (七)世智弁聡 [世俗智にたけて正理に従わない]
(八)仏前仏後 [仏が世におられない時期]
 長寿ということはめでたいことでもありますが、八難に数えられる面もあるということです。最近の年寄りは、寺に行かずにゲートボールばかりに行っておるという話も聞きます。年を取ると仏法に近づくとも言えないのですね。
 さて、ここで有名な裏表の問題を取り上げます。

四、【 善と悪】から【 仏性と煩悩】へ
 昔から性善説と性悪説があります。人間は根本の所では信頼できると考えるか、信頼できないと考えるか議論の分かれるところです。正義も同じです。正義の戦争と語る大統領もいます。正義と悪を明確に分けることができるのでしょうか。
 親鸞聖人は「 善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。・・・」と言っておられます。私たちの本性は悪なのでしょうか。それとも善なのでしょうか。

 仏法(空の思想)では善も悪も表裏一体。同じことの違う表れと考えます。でも、私たちはなかなかそのように見ることはできません。
 涅槃経に「 一切衆生悉有仏性」と書いてあります。お釈迦様は、覚った時に全ての存在がかがやいて見え、その全てが仏性であると見抜かれました。どんな人でも仏の知恵のそなわらないものはないと。
 ということは、私たちは仏性を有する尊い存在なのでしょうか。私たちには仏性があるのでしょうか。
 でも、毎日の自分の行動を振り返って見ますと、貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさの日々です。いったいどちらなのでしょうか。
 人間が本来素晴らしい尊い存在であるのならば、今のありのままの私も尊いのでしょうか。「 今の私はどのような有様か?」と問えば、正定聚の菩薩(大信を給わり、仏になることが定まった人)だったらどのように応えるのでしょうか。

五、【 仏性を有する尊い私と罪悪深重の凡夫の私】
 仏になるということは、往生することです。往生するということは、仏と出遇うということです。仏と出遇うということは、真実の自分に出遇うということです。
 自分の姿をじっと見つめれば、煩悩の塵にとらわれ、ものの善し悪しの姿に心を縛られて、不自由を嘆いています。正定聚の菩薩であれば、むしろ「 毎日迷ってばかりの私です」「 罪悪深重の凡夫とは私のことです」と慚愧・懺悔するしかありません。
 とすると、仏性と煩悩は、本当に表裏一体なのでしょうか。私たちに備わっている仏性は何処へ往ってしまったのでしょうか。

 ここで、少し視点を変えてみます。狭い自分自身の心の中をあれこれ探ることをやめて、仏と私たちの関係を考えてみましょう。

六、【 光明と闇】は表裏一体・・・それは【 大慈大悲大智と貪瞋痴】のこと
 闇があって光がある。光があるから闇が見えてくる。この闇とは私たちの煩悩のことです。自分の煩悩に気がつかない人には、当然光もありません。光があたってこそ煩悩が見えてくる。つまり、煩悩が見えるということは光があたっているということでもあります。
 この光が仏の大慈大悲大智です。そして、阿弥陀様は光の仏様です。
 仏の光に照らされているからこそ、親鸞聖人はご自身を愚禿と名のられ、無慚無愧のこの身と内省されたのではないでしょうか。つまり、光と闇は表裏一体のものであります。正反対に見えるけれど、唯一つの真実を別の方向から顕しているだけのものであります。
 光だけがあるのではない。闇だけがあるのではない。仏の大慈大悲大智も、私たちの煩悩があるからこそであります。

七、【 摂取不捨と罪悪深重】
 このことを、善導大師は二つの深信として述べられておられます。  
決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
 自分自身を深く見つめると「 罪悪深重」としか見えないということであります。
 では、「 罪悪深重」に対して裏は何でしょうか?
 「 摂取不捨」です。おさめとって捨てず。同じく善導大師は、  
決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。
  とおっしゃっています。罪悪深重の私のままでは救いはありません。 仏の大慈大悲大智は、摂取不捨とならざるを得ないのです。
 まさに、表裏一体なのです。救われる側の願いと、その者を救う阿弥陀仏の本願のはたらきとは一つであるということです。つまり、「 罪悪深重」と「 摂取不捨」は同じことになります。罪悪深重だからこそ摂取不捨があるわけですから。
信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり
                浄土和讃  愚禿親鸞作
 仏性は仏であった。そうすると、今あなたの隣に居られる方は、仏の摂取不捨の誓いによって共にお助けに遇っている方、やがて仏になられる方、仏性を有する尊いお方であります。(逆に言えば、煩悩にまみれている私と同じように苦しんでいる同志としても尊い方であります。)

八、機法一体のお念仏
 「 一切衆生悉有仏性」とは、生きとし生けるものはみな尊しということであります。では、そういう方々に手を合わせて拝むことができますか。あなたの隣の方に手を合わせて真剣に拝むことができますか。
 私は隣の人の尊さを本気で拝めません。一番近い人ですら拝むことができないのです。拝めるようになりたい。でも、これが「 罪悪深重の凡夫」の恥ずかしい姿であります。そう考えると、また、この裏表に大きな隔たりがあることに愕然とします。
 だからこそ蓮如上人はたった一つ、真実信心を頂けとおっしゃった。真実信心であります。信を頂くとは、隣の人を拝めないそなただからこそ助けるんだという仏に、そのままの私を投げ出すことであります。それがお念仏であります。
 拝むべき人を拝めないばかりか憎んでしまう。手を合わせてお念仏を称えた時、そういう私であったことに気づかせていただきます。そして、だからこそ摂取不捨の仏の慈悲があるのだと。
 自分の言動を振り返り深く恥じることは、仏と出会うご縁なのです。このことを、浅原才市さんが次のように書いておられます。

ねんぶつは慚愧歓喜の絶えなしの仏
なむあみだぶつのなせる仏

慚愧のごゑん(御縁)にあうときは
ときもき(機)もあさましばかり
なむあみだぶつのなせるなり

この法は慚愧法、ざんぎ法なら歓喜法
くわんぎ法ならなむあみだぶつ

よろこび歓喜のをいい(多い)のもあさまし
ざんぎのをいい、もとの山の水のをいいのも
もともと海の水がをいいからよの
ざんぎ、くわんぎの味もこれでしれるよ
ざんぎ、くわんぎも慈悲のうみ
これがろくじのなむあみだぶつ
             浅原才市翁
 おのれのあさましさは山の水と同じで、次から次へと湧き出てくる。それも、本の海の水―仏の慈悲が多いからよ。
 才市さんは、自分をあさましいと自覚することができるのもご縁であり、慚愧が多いのも、もとの仏の慈悲が多いからだと歓喜されておられます。
 【 慚愧と歓喜】もまた表裏一体のものなのでした。

二〇〇八.五

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