仏の本願と相応する

衆生ほとけを礼すれば、仏これを見給ふ。衆生仏をとなふれば、仏これをきき給ふ。 衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じ給ふ。かるがゆへに阿弥陀仏の三業と、行者の三業と、かれこれひとつになりて、仏も衆生もおや子のごとくなるゆへに、親縁となづく。
                『 往生浄土用心』
 三業の相応(さんごう そうおう)とは、身口意(しんくい)の三業、つまり行動と言葉と考え方が、ばらばらにならないで、互いに相応すること。難しいことです。
心で思い、口に出し、身で行う。いや、逆ですね。行い、口に出し、思う。
仏の本願と相応するとは、弥陀の本願にかなうということ。

 同じく法然上人の本願相応集の一節
まことにこの仏の願にあらずばいかにしてか生死をはなるべきとこころえて心のうちにおもいはんべりてたすけたまへと(本)願力をたのむべし
また善心起こらんときにも思ふべし
われらが心のいみじうておこるにはあらず
これもみな弥陀仏の御たすけにて一念の善心もおこるとおもうべし
                『 本願相応集』 源空上人
 弥陀仏が、私の煩悩にまみれた心に入って来てくださる。
だから善い心も起こるときがある。私に良心(善心)があるのではない。
善い悪いなどという判断ができるのは、仏の智慧だけですから、私は善いことをしたと手柄にしてはいけない。

 もう一つ、妙好人(みょうこうにん)浅原才市さんの言葉
わしのこころは、あなたのこころ
あなたごころが、わたしのこころ
わしになるのが、あなたのこころ
 この「 あなた」が誰であるのかおわかりですね。
私たちはあなたにはなれない。しかし、あなたの方からわたしの方に来てくださる。こんなうれしいことがあろうか。
この詩には「 他力の信心」を受け取った喜びが満ちあふれています。
「 わしが阿弥陀になるじゃない。阿弥陀の方からわしになる。なむあみだぶつ。」
念仏は阿弥陀になることなんですね。阿弥陀が念仏を称えておられる。
なむ仏さいち(才市)が仏でさいちなり
さいちがさとりを開くなむぶつ
これをもろたがなむあみだぶつ
わしのりんじゅう(臨終)あなたにとられ
りん十すんで、葬式すんで
あとのよろこび、なむあみだぶつ
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