我が心の良くて殺さぬにはあらず

 ある時、親鸞さんが唯円さんに語りかけます。
「 唯円房は、私の言うことをば信じるか。」
師を尊敬していた唯円さんは答えます。
「 ハイ仰せの通りにいたします。」
「 今言ったこと間違いないな。」
「 謹んで仰せの通り致します。」
「 では、人を千人殺してみよ。そうすれば往生は間違いない。」
困ってしまった唯円さんは必死に答えます。
「 私の器量では一人を殺すことすらできません。まして千人など。」
そこで親鸞さんは言われるのです。
「 これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また、害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし。」
 と、おほせのさふらひしは、われらが、こころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、おほせのさふらひしなり。
            歎異抄 第十三条

戒めと励ましの言葉

 初めて歎異抄のこの部分を読んだとき、大きなショックを受けたことをまざまざと思い出します。この言葉は、私自身のそれまでの道徳観をひっくり返した言葉だったのです。そして、「 良い人間」になろうとしていた私にとって、厳しい戒めの言葉として心に残ったのです。
 それが、教員になってから子どもの非行と対面した時、今度は励ましの言葉として現われたのです。人間の心を良い悪いで判断してはいけないと。そして、この子は私と同じだと。そう思った時に、やっと子どもたちに関われるようになりました。それ以来、この言葉は私自身の心の奥底を見つめ直すメガネとして何時も傍にありました。
   (参考サイト)祖父江文宏師 【 家庭内暴力からみえてくるもの

 しかし、親鸞さんはなぜこのような突拍子もない「 問い」を思いつかれたのでしょうか。「 良いことをせよ」「 悪いことはするな」これが仏教の基本です。それを一見否定するような問いなのですが、考えてみると、「 良い子になれ」「 心のきれいな人になれ」という非道徳がまかり通る世間でこのような根源的な問いを発することは、自分自身の心の有り様を鋭く見つめた人にしかできないことです。
 では、親鸞さんはどうしてこのような心の根源的な問題を考えるに至ったのでしょうか。
 それは、心の奥底を深く考える仏教があったからです。仏教の目的は苦を滅することです。苦の原因は無明や煩悩です。煩悩は私の中にある自分中心の心から出てきます。では煩悩(自分中心の心)を捨ててしまったら何が残るのでしょうか。いや、そもそも捨てることのできるものなのでしょうか。

唯識…心を見つめる

 七高僧の一人、天親(世親)菩薩が説かれた教えの中に唯識論というのがあります。フロイドの精神分析(無意識の世界の探求)よりもずっと前、四世紀のインドに現れた、人の心の有り様を分析し無意識の世界を探求した仏教の教えです。
 西遊記で有名な三蔵法師玄奘は、この教えを求めて天竺に旅しました。ちなみに三人の弟子、孫悟空は空を悟る、沙悟浄は浄を悟る、猪八戒は八つの戒の意味です。道教と仏教の融合したこの小説の面白さは、三蔵法師のひ弱さと弟子たちの強さや勝手さの対比だと思われますが、実際の玄奘さんは、三人の弟子たちの力と、三蔵法師の知性を兼ね備えたスーパーマンみたいな人でした。そして、インドから持ち帰った仏典を翻訳します。
 三蔵法師の言い尽くせぬ恩徳によって、私たちは大きな恩恵を受けているのです。

 三蔵法師が伝えた唯識は、「 世界は個人の表象、認識にすぎない」と主張する認識論でした。でも、この認識論は存在論でもありました。世界は認識(言葉)に過ぎないけれど「 言葉では表すことのできない実体がある」と考えました。
 人間の認識の本は私たちの感覚です。それを五識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)とし、これを統合する知情意である意識を六識としました。ここまでは実感としてわかるのですが、さらに末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という二つの無意識層を想定したのです。

 「 末那識」は寝てもさめても自分に執着し続ける心です。熟睡中は意識の作用は停止しますが、その間も末那識は活動し、自己に執着します。末那識には、四つの煩悩があります。我見(個人我についての妄信)、我痴(個人我についての迷い)、我慢(個人我についての慢心)、我愛(個人我への愛着)です。これが、意識に働いて、貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)[ 以上を三毒という]・(のぼせ・おもいあがり)・疑(うたがい)・悪見(あやまった見方)となり、さらに次から次へと様々な煩悩を生み出していくのです。
 これらの煩悩によって傷ついた体験(もちろん良い体験も)や意識は、阿頼耶識に貯めこまれます。逆に「 阿頼耶識」は七識の本であり、前五識、意識、末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、更に我々が「 世界」であると思っているものも生み出しています。

縁起思想と唯識

 ところで、唯識が認識論だとすると、仏教の基本である縁起思想との関係がどうなっているのか気になります。縁起は関係性のことですから、関係性の中で人間の認識はどう変わってゆくのかという問いになります。
 唯識では私たちの存在は関係性の中にあると同時に、それを認識する心も関係性から成り立っているといいます。

(1)認識する根本(阿頼耶識)には善悪はない。
(2)阿頼耶識は大きな入れ物であり、善でも悪でも貯めこまれる。
(3)関係性が認識に大きな影響を与える。
(4)阿頼耶識と表層の識は相互に関係し合う。

 このことから、「 私の心が善くて人を殺さないのではない」と見抜かれた親鸞さんの慧眼には驚かされます。私たちが関係性の中で生きている存在であるということは、環境によって、人をも殺す存在にもなりうるということです。昨今の様々な事件を見ていると、頷くしかありません。
 ということは、これらの事件の当事者は他人事ではなく私のことということになります。縁さえ備わっていれば、私が犯したかもしれないからです。

 では、この阿頼耶識や末那識はコントロールできるものなのでしょうか。無意識だから意識的にコントロールはできません。私たちは意識したからといって、考え方や物の見方を簡単には変えることができないのです。唯識では、私たちにできることは阿頼耶識に良い種を植えつけることだけと言っています。阿頼耶識に善い種を植え付ける行動によって世界が変わるというわけです。
 でも、どうやったらその善い種を植え付けることができるのでしょうか。末那識が生み出す煩悩は私たちに備わっているものとして考えざるを得ません。貪瞋痴は私の日常の生活なのです。 何だか絶望的な気持ちにもなります。

悉有仏性と五姓各別

 涅槃経の中に一切衆生悉有仏性という言葉があります。道元禅師は「 すべてのものが仏性を持っているなら、なぜ厳しい修行が必要なのだろうか」と問われ、宋へ渡られました。この仏性を唯識ではどうとらえているのでしょうか。

 唯識では無仏性の心があると言っているのです。つまり誰もが成仏する(悟りを開ける)わけではないと説いているのです。これを「 五姓各別」と言います。衆生には、菩薩定姓(自利利他の菩薩行を行う人)、独覚定姓(独りで悟りを開いてゆく人)、声聞定姓(仏の教えを聞いて一生懸命修行する人)、三乗不定姓(この三つのどれかに定まっていない人) 、無性有情姓(仏の教えに耳を傾けないで出世、地位、財産や権力を求める人)の五種があり、最後が無仏性のものだと言うのです。

 親鸞さんは、これを学ばれたときに、自分は無性有情姓でしかないと考えられたのではないでしょうか。
 修行すれば必ず悟れる。悟れないのは努力が足りないからだ。そういう社会(比叡山)で、一生懸命努力された。しかし、純粋にご自分を見つめられたとき、どんな修行をしても悟ることはできない己の姿が見えてきたのだと思われます。そして、絶望的な気持ちになったのではないでしょうか。
 そんな時、法然上人に出会い、「 自分の力で己の煩悩を捨てることはできない。煩悩具足の己が成仏(悟ることが)できるのは阿弥陀仏に助けてもらうしかない。」と言われたのです。
 この言葉を聞かれた親鸞さんはどんなお気持ちだったのでしょうか。世界が逆転したのです。そして、一切衆生悉有仏性は偽りではなかったのです。

煩悩について

 唯識によりますと、煩悩は末那識(まなしき)から出てきます。末那識は自分を中心に考えてしまう心ですから、我執我所執です。これは、動物には無い心です。動物は自分に執着することはありません。でも、この心は人間のエネルギーの元であり、覚りを求める心すらもここから出てきます。
 とすると、煩悩は必要ではないでしょうか。煩悩が無くなれば、私たちは生きる気力を無くしてしまうのではないかと思われるからです。逆に言えば、煩悩があるから生きていけるとも言えると思うのです。でも、苦の根源は全てこの煩悩から来ています。これはどう考えたらいいのでしょうか。
 この煩悩に対して、近代のヨーロッパの哲学は理性という言葉を用意しました。理性によって人間の持つ不(非)合理性を乗り越え、「 人間のために」というヒーマニズムを重視する考え方です。
 この理性を仏法では分別智と言います。仏法では分別智は私たちの智で、無分別智は仏の智慧です。そして、分別智は煩悩でもあります。乗り越えようとした煩悩に再び還って来ているのです。この分別智を生み出しているものは言語です。言語は私たちの生活に無くてはならないものですから、言語が生み出す煩悩もまた私たちから切っても切れないものとなります。
 

心の地動説

 科学はいよいよ脳の働きを解明しようとしています。最近読んだ脳科学の本の中で、心に響いたのは「 受動意識仮説」でした。「 私たちの意識は受動的なものである。自分の意識が全ての行動を決めていると思っているのは幻想である」という前野さんの説です。(前野隆司『 脳はなぜ「 心」を作ったのか』)この説には自然に納得できます。
 「 意識」も脳の中の小人たち(=ニューラルネットワークのエージェント)に従う受動的なものでしかなく、それを主体的なものであると錯覚しているに過ぎないというのです。これは、著者が「 心の地動説」と呼称するもので、心が主体的なものである(=世界の中心である)としてきた従来の考え方(=天動説)からコペルニクス的転回を果たすものということで、名づけたものです。
 この考えは、まるで唯識そのもののような気がします。
 脳の中の小人たち、それは煩悩を起こすだけでなく、計算したり、見たり聞いたりしたことを処理したり、記憶したり、思い出したりするありとあらゆる無意識の活動です。それらの様々な活動の結果だけを意識が見つめているというイメージは、川の例えで示されています。小人たちの活動は川の上流の流れです。たくさんの支流から流れてくる川の流れは、やがて大きな流れとなって下流へと下る。それを私たちの意識が眺めているというイメージです。

 「 なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。」
 私たちの身体は、心が欲した通りに行動するのではないのです。これは普通、心だけではなく縁(関係性)が大きく影響しているという意味にとらえます。ところが、この「 受動意識仮説」では、意識が思う前に身体が行動しているといいます。実は、指を動かすということでさえ、「 動かそう」と意識される前に動いているというのです。まさに、心が欲した通りに行動しているのではないのです。
 私たちは他者との関係に於いても中心的ではありません。さらに、私たち自身の脳の中に於いても意識は中心ではないということを示しています。ですから、この仮説は私には唯識思想、いや他力思想と映ってしまうのです。
 もしかしたら、無自性を覚ることとは科学から言えばこのようなことなのかもしれません。でも、「 悟る」と「 覚る」で「 覚悟」となりますから、ここからが出発点なのです。

仏の光にてらされて

 「 あの時に本当に可哀相なことをした。わしもすまんと思っとる。謝りたいと思ってなあ。」
 なんと、五十年も前のことを謝りにみえた方がおられたのです。その方はうちで買っていた犬に咬まれたのです。その犬は保健所に送られ、「 処分」されたのです。
 「 ごえんじがあの犬に会いに保健所にいかれた時、檻の中からじっと見つめていたと聞いてかわいそうで。」
 咬まれたのはご自身なのに、犬がかわいそうやったと言われるのです。
 心というものは実に不思議なものです。何か心にひっかかって五十年たった今、そのことを思い出されたのでしょう。その間もっと辛いことがいっぱいあったでしょうに。私はそれが仏の光に照らされるということではないかと思います。
 仏の光に照らされるということは、自分自身を深く見つめることになります。唯識も自分自身を深く見つめることを主眼としています。親鸞さんは、そこに煩悩と共に生きていくご自身の姿と同時に、仏の光が確かにあたっていることを感じ、仏と共に歩む本当のご自分の姿を見いだされたのだと思います。
二つの白法あり、よく衆生を救く。
一つには慚、二つには愧なり。
慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。
慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。
慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。
無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。
 涅槃経の中にある言葉です。でも、親鸞さんはご自身のことを無慚無愧と述べておられます。念仏を称えながら、何時もご自身を真摯に見つめられていたのです。これは阿頼耶識に善根の種子を植えつける行為とも考えられます。でも、そう考えたとたん自力の修善となってしまいます。
 「 これは、愚禿がかなしみなげきにして、述懐としたり」と記された親鸞さん八十六歳のときの御和讃です。
浄土真宗に帰すれども
 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて
 清浄の心もさらになし

外儀のすがたはひとごとに
 賢善精進現ぜしむ
 貪瞋邪偽おおきゆえ
 奸詐ももはし身にみてり

悪性さらにやめがたし
 こころは蛇蝎のごとくなり
 修善も雑毒なるゆゑに
 虚仮の行とぞなづけたる

無慚無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀の回向の御名なれば
 功徳は十方にみちたまふ

小慈小悲もなき身にて
 有情利益はおもふまじ
 如来の願船いまさずは
 苦海をいかでかわたるべき

蛇蝎奸詐のこころにて
 自力修善はかなうまじ
 如来の回向をたのまでは
 無慚無愧にてはてぞせん

           愚禿悲歎述懐和讃
        二〇〇八.四
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