出会えない悲しさ

その人びとと決して出会えない悲しさ
見知らぬ人々が、私の知らない人生を送っている不思議さ

無数の人々と擦れ違いながら
私たちは出会うことがない
その根源的な悲しみは
人と人とが出会う
かぎりない不思議さに通じている

               「 旅をする木」  星野道夫
私は時々考える。
全てのものごとが対称になっているとしたら、
「 出会いの不思議さ」も対称になっているはず。
その対称になっていることは何だろうか。
・・・
それは、同時代に生きていながら決して出会えない悲しさ。


私は対称性を無意識のうちに求める。
思考における対称性をも求める。
「 人と人が出会う不思議さ」は、縁起の不思議さ。
偶然、たまたま出会ってしまった・・・しかし、なくてはならない出会い。
では、その対称のコトは何だろう。
そんなことは考えたことがなかった。
そして、この文章に出会った。

星野さんはアラスカの小さな村と出会ってしまった。
でも彼は、
「 人と人が出会う不思議さ」だけを語ってはいない。
ずっと前から存在している「 決して出会えない悲しさ」
不思議な感動。

すれ違っているだけで出会うことがない。
出会いの無さは人間の根源的な悲しみという。
なぜ根源的なのだろうか。
生きることは、出会いの連続である。
出会わないということは、出会えないということ。
無数の人たちだから出会えないのなら、
それこそ根源的な悲しみである。

出会ったことから見るのではなく、出会えないことから見る。
出会えない人々にも私の知りえない不思議な人生がある。
その人生を知りえないことは、
悲劇なのではないだろうか。
出会えないことはやっぱり悲劇なのだ。
出会っていなからこそ起きる悲劇・・・
すれ違っていることから起きる悲劇・・・
私たちはそれを何度も見てきた。

でも、私たちは「 その悲劇」にすら出会っていない。
その人々と決して出会えない悲しさ

     二〇〇九、一 
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