門徒とアーミッシュ

宗教的共同体の文化と信心の相続

一、「 信教の自由」と「 門徒」について

 「 家が門徒なら、私も門徒なの?」
この問いは「 信教の自由」からは否定されることだが、信心の相続という観点からは否定されるべきものではない。それは、御同朋御同行といわれる宗教的共同体と信心の相続の問題につながっていくからだ。

 日本にも様々な宗教的な共同体があり、それぞれに共同生活をおくっている。オウムもその一つだったからイメージが悪くなってしまったが、かっての村落共同体も宗教的共同体の一面を持っていた。
 しかし、現在はそういう共同体的な面はかなり薄れている。そもそも宗教生活と信仰が現代社会でどのようなものであるかは、ほとんどの人にはイメージできない。そのような中で、信仰を個人の問題として丸投げしても無責任であろう。
 ここで、念仏の生活と信心相続についての問題提起のために、ある宗教的共同体のモデルを取り上げてみたい。

二、アーミッシュの信仰と文化

 それは、合衆国の「 アーミッシュ」の人々である。アーミッシュとは、キリスト教の一派で、聖書に生活の規範を求めて、農業中心の伝統的な生活を維持している宗教的共同体である。彼らの住んでいる村には電線はない。だから電気製品は全てなく、テレビはもちろん冷蔵庫もない。自動車もなく移動は馬車である。動力源は水力や風力である。生態系にかなう農法で自給自足体制を整えている。
 彼らは十八世紀ごろ、ヨーロッパでの迫害を逃れてアメリカに移住してきた。そして共同体をつくりながら少しずつ増え、人口も十万人以上に達しているという。布教ではなく自然増がほとんどらしい。

 現代アメリカでそのような生活が可能であるのはなぜなのだろうか。そもそも彼らがなぜそのような生活をしているのだろうか。この疑問を解き明かしながら、あわせて(同じ信心をいただいた人たちの)宗教的共同体とは何かを考えてみたい。

 彼らの信仰は聖書中心主義であるが、特に「 幼児洗礼」を否定する。それは、自覚的に信仰告白をした人たちによって教会(コミュニティ)が構成されるべきで、さらに聖書を生活の規範とするということを基本教義にしている。だから、カトリックの教会に見られた幼児洗礼などのような形式化した儀礼を否定し、あわせて、プロテスタントの教会が国家の監督下に入ったことも否定する。
 彼らにはいくつかの戒律があり、その戒律を破るとアーミッシュを追放され、家族から絶縁される。その一つに、「 保険に加入してはいけない(予定説に反するから)」というのがあった。

 効率と快適さを追究し個人主義を重んずる現代アメリカの産業的・都市的文化を拒否し、彼らの伝統的な生活様式とコミュニティを維持することがどうして可能なのか。自然に人口が増えているということは、彼らの子どもたちが多く参加をしているということである。幼児洗礼ではなく自覚的に決めるというシステムはどうなっているのだろうか。
 そこに信教の自由と信心相続の問題を解く鍵が見つかるのではないか。

三、「 祭礼空間」「 日常空間」「 世俗空間」の分離

 彼らの信仰は儀礼だけではない。生活そのものが彼らの信仰なのだ。でも、それが外部との接触によって大きな影響を受けることはまちがいない。
 彼らは、教会を持っていないが集まって祭礼をする。また、学校や地域など外部の人たちとの交流もある。彼らはそれを、「 祭礼空間」「 日常空間」「 世俗空間」と明確に分け、それぞれで使う言語を分けている。元々彼らはドイツから移住してきたので、祭礼はドイツ語、家庭では方言ドイツ語、世俗では英語というように。彼らは生活空間を分割し秩序化することで、信仰の生活を保っている。

 また、様々な戒律は、彼らの一生の節目に対応し、人生のそれぞれの段階において、例えば、若者と大人の差異(服装や馬車の屋根などの戒律の差異)として明確に区別している。これが、宗教的な共同体の存在証明であると同時に、コミュニティの存続や秩序維持、さらにイニシエーションとしても働いている。

 私たちの人生で大事なものは教育と社会福祉である。彼らの社会福祉はコミュニティの中で充足されている。それは大家族主義であり、ひとつのコミュニティは深く互助的な関係で結ばれていて、新しい家を建てるときには親戚・隣近所が集まって取り組む。
 したがって、合衆国の社会福祉制度については、「 良心的に反対している宗教的集団で、援助を必要とする集団内成員に適切な処置を講じている集団については、社会保障税を免除するという法律」によって国家から独立している。つまり社会保障税を払っていない。

 教育制度では州政府との激しい葛藤(法令違反ということで逮捕・投獄される保護者もあった)があったが、現在ではアーミッシュ独自の学校が特例として認められている。

四、子どもたちの教育

   現代アメリカの強力で侵食力のある消費文化に対して、アーミッシュの子どもたちはそのあまりの違いに、葛藤を強いられているのだろうか。
 ところが、彼らのほとんどは自分の意志でアーミッシュの文化を選択するという。どうやらその秘密は彼らの教育にあるようだ。

 私たちは、教育を上を目指す手段であると思っている。アーミッシュにとって「 教育」とは、一人ひとりの子どもにアーミッシュの信仰と生活様式を教え、アーミッシュの成員に向けて子どもを社会化する手段であると同時に、アーミッシュのコミュニティを維持していく手段でもある。(教育というものは本来そういうもの)

 「 義務教育以上の高等教育を受けてはいけない(大学への進学など)」という戒律があるので、子どもたちの教育はすべてコミュニティ内だけで行われ、教育期間は八年間である。一九七二年に連邦最高裁において独自学校と教育をすることが許可された。教師はそのコミュニティで育った未婚女性が担当する。
 教育内容は方言ドイツ語と英語と算数を中心に、保健、歴史、地理などである。教師は聖書の教義を説いたり解釈を示したりはしない。態度と行動で模範を示すのである。教室でのルールは、「 他人があなたにして欲しいと思うことを、あなたも他人にしなさい。」だけである。

五、信仰=コミュニティの選択

 小学校を卒業する十五歳前後から結婚する二十歳代前半までは、義務就学年齢までは週三時間、定時制の職業訓練校に通うことになっているが、その場合でも中心的な活動の場は、基本的には家庭と地域にあるが、特に仲間集団中心に展開する。日中は農場や工場で働き、夕方や日曜日にはアーミッシュの仲間と過ごすことが多い。それが結婚相手との出会いの場ともなる。
 いわば親元を離れて俗世で暮らすのである。アーミッシュの掟からも解放され、時間制限もない。それは、自由と独立のなかで、アーミッシュであり続けるか、アーミッシュと絶縁して俗世で暮らすかを選択するためである。
 そして、ほとんどのアーミッシュの新成人はそのままアーミッシュであり続けることを選択するといわれる。こうして彼らは自らアーミッシュであることの意味とアイディンティを獲得していく。

六、宗教における教育の意味

 アーミッシュの人たちが、そこまで教育にこだわるのはなぜだろうか。四つの理由があるという。

(一) 学区や学校の統廃合は、子どもの徒歩通学を不可能にし、教育をコミュニティの管理下から引き離し、子どもの生活を学校という親の目の届かない空間に閉じ込めてしまう。
(二) 学校のカリキュラムが、科学的・社会的・文学的知識と民主主義や合理的主義の価値を満載した教科書、テストによる評価と進級…など、アーミッシュの文化にとって危険で望ましくないもの。
(三) (子どもたちが相互に交渉しあう)学校空間は、親しい友だちを通じて興味深いモノや情報が友だち関係の一部として伝えられるとき、それを拒否することは非常に困難である。
(四) アーミッシュにとって必要な教育は、アーミッシュの農場や作業場や家庭で実際の作業を通じてでき、しかも最も適切な方法であるから。

 これらの理由を見ると、かっての日本の農村地域の学校を思い出される。かって「 百姓に学問はいらん」と言われた友だちもいた。(四)は職人の世界である。
 でも、日本では学校は統合され、カリキュラムは一方的に統一され、マスコミを通じて市場主義的な価値観が友だちからも浸透し、作業を通した教育がほとんど消えてしまっている。
 でも、アーミッシュの人たちが二百年以上にわたってコミュニティ=信仰を守り通してきたことを考えると、宗教における教育の重要性を見つめなおすきっかけとなる。私たちはそういったものをあまりにも軽く捨て去ってきたのかもしれない。

七、信心相続

 私は、アーミッシュの人たちのように昔の生活をした方が良いと言いたいわけではない。しかし、信仰と生活が密接につながっていることや、共同体=信仰を守ることの重要性を彼らは教えてくれる。
 そして、彼らの「 自覚的に信仰告白をした人たちによって教会(コミュニティ)が構成されるべき」という教えが、彼らの独特な教育システムを生み出し、それが信仰の相続につながっているということからは学ぶべきことが多い。

 法然さんや親鸞さんが言われたのは、ただ念仏するという生活だけであった。その念仏する生活者の集まりが御同朋御同行である。それは、信心による縁でつながった共同体である。
 ただ、そこに具体的な活動(生活)がないと、共同体としての文化や相続がなくなるのは、アーミッシュの例を持ち出さなくてもわかる。

 では、それはどのようなものであろうか。
 それは、(食事の時など)家族が手を合わせ念仏をするという生活である。もちろん、法事は祭礼空間としてしっかりと残す。でも、日々の平凡な念仏の生活こそ、アーミッシュの人々の生活に対応するものではないか。
 それは「 相続」であり、「 教育」という大きな文化を含み持っている。相続とは教育であり、教育は生活がしてくれるものなのだ。

ちちははの愛深かりし田舎家を朝より念仏のこゑに満たして
喜びに悲しみに念仏したまへば 幼き耳もそをききれけぬ
わが父母はこの世に生まれ来りしは 真宗にあはんためと言わせし
                  中川幹子

  参考文献 「 子ども・学校・社会」 藤田英典著

    仏暦二五五五年六月

   目次へもどる