死後の世界 … 「 無生の生」

一、死んだらどこへ行くと思っているの?
 (こう中学生に聞きました。そのときの生徒の反応です。)
私: みなさんは、死んだらどこへ行くと思っている?
生: 天国へ行く。   (これが、一番多かった。)
私: みんなの家の宗教は、仏教ではないの?
生: うちは仏教だよ。どうして?
私: 仏教の場合は、天国といわないで、浄土って言うんだよね。
生: そういえば、極楽浄土って聞いたことがあるな。
生: 墓へ行く。
私: 君は墓に入るのか。きっと冷たいだろうな。
生: 骨を墓に入れるよ。〜家の墓と書いてあるから、家族がみんな入るんだ。
生: 土に帰る。
私: 人間は土になるのか。焼くと灰になるもんね。人間は、もともと土からできていたからね。
生: 無になる。
私: 消えてなくなるわけだ。
生: 生まれ変わる。
私: 今度生まれ変わったら、何になるの?
生: 鳥がいいな。どこでもいけるから。
生: 地獄へ行く。
私: おっ、君は地獄に行くか。もし良かったらその理由を教えてくれない。でも、無理に言わなくってもいいよ。
生: おばあさんが地獄に行くと言った。僕が、魚釣りが好きで殺生をしているから。
私: 殺生ばかりしていると地獄に行くよ、とおばあさんが言ったんだね。
 (このとき、この生徒を抱きしめてやりたくなりました。)

二、臨死体験
 かって、キューブラー・ロスの臨死体験に興味があって彼女の本を読んだことがあります。この臨死体験した人が語った事柄には、共通した出来事があるようです。幽体離脱を経てある体験をするということですが、宗教・民族を越えてほぼ共通しています。
 それは、トンネルを越えて行くと光(花)の世界があり、そこに亡くなった人や神や仏のような光に包まれた存在があり、自分自身が光に包まれ、それは慈悲(愛)や智慧を感じる光であり、無限の幸福を感じた。そして、全てのものが自ら光り輝いていた。また、自分自身の人生を一瞬のうちに見ることができた。そこにいた人が、帰りなさいと語ったことなど。
 この様子は、まるで経典に描かれた浄土の様子に似ていますし、また、お釈迦様が悟りを啓かれた時の状況とそっくりです。
 私は、脳の奥深くに臨死体験をするプログラムのようなものが組み込まれていて、自身の生命が危険な目に遭ったときに、それが働き出すのではないかと考えています。ただ、この体験には単なる幽体離脱だけに終わるものから、それ以後の人生が変わるような深い体験をするものまであるようです。

三、死とは何か
 キューブラー・ロスの死を前にした子ども達への語りかけは、死を積極的に認めることによって生を際立たせることにあると思います。死後の世界があることを知った子ども達は積極的に今を生きようとするのです。
 ところで、生老病死の四苦のうち死だけは本人が体験できないものであります。ですから、死は本人にとって存在しないという考え方も出てきます。死は自分がなくなることであります。では、自分が無いことを自分が考えることができるでしょうか。どう考えても自分が無いことを考えることはできません。つまり、自分の死は考えることができないということになります。
 いなくなると死ぬこととの間には違いがありません。でも、それは他人の死であって自分自身が居なくなった状態は考えることはできません。私たちにとって、自分の死はいくら探しても見つからないということになります。
 例えば、死を机に例えてみましょう。みかん箱も机になります。石も机になります。では机とは何でしょうか。豪華な机をいくら細かく分解しても、そこに「 机」は見つかりません。死もまた同じことであります。
 机は物ではなく「 働き」なのです。とすると死も生もまた「 働き」ということになります。この「 働き」を「 いのち」というのではないでしょうか。

四、龍樹菩薩の有無見(生死の見方・ 考え方)
 正信偈の中に、「 悉能摧破有無見」という龍樹菩薩の業績を述べた文があります。
『 有無の見を摧(くだ)き破るとは、人は人に生れ、虫は虫に生れ生死相続して常住なりと思う、これ「 有の見」なり。 又、人も犬も死すれば、火の消えたるが如く、灰となり土となり、迷いも証(さとり)もなきことなりと思う、これ「 無の見」なり。』
 そもそも仏教の基本原理・四法印「 諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静」の諸法無我は、我というものはないということを示しています。「 我」はさまざまな関係(縁起)中で存在しているのであり、実体として存在していると思うのは幻想であるということです。
 したがって、仏教では霊魂の存在を認めていません。我が無いわけですから、死後も霊魂という永遠なる自我があるなどということは、諸行無常の原理からも反することになります。龍樹菩薩はこれを有見と言われました。逆に死後は何も無いと思うことを無見として批判されています。そして、その二つの見方とも邪見とみなし、中道を勧めたのです。

五、薪と灰の例え
 生と死について道元禅師が実にうまい例えを言われています。生と死を薪と灰に例えて、生の後が死ではないと明言されているのです。
たきぎはいとなる。さらにかへりてたきぎとなるべきにあらず。しかあるを灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。  《 正法眼蔵現成公案》
 薪は燃えて灰になる。灰は決して薪にはなれない。薪の後に灰が出てくるとはいえ、薪が死んで灰になったとは言わない。生死もまた同じ。山の木は木としていのちを尽くし、切られて材木となっても木が死んで材木となったとは言わない。材木は木材として家となり家族を守る。家が壊されたら木材は薪として暖を生み出し、灰は灰としてまたその働き(いのち)を尽くす。それぞれに始まりと終わりがある。私たちの生死と薪を同じことととらえる平等観に驚きます。
 ある時、生徒に次のような質問をしたことがあります。
私: Kちゃん。質問してもいい?
生: 忙しいから簡単にしてください。(本を読んでいる。)
私: 「 生きている」ということはどういうことだろう。例えば、給食で食べるパンは生きているの?
生: 生きています。
私: どうして?
生: 死んでいたら食べられません。
私: じゃあ、給食にでる魚は生きているの?
生: もちろん生きています。死んでいたら食べられません。
 この返答には参りました。感動しました。この子は障害児学級の生徒です。彼の「 生きている」という言葉を「 いのちがある」と置き換えてみると、もっとはっきりします。
 ところで、道元禅師の次のお言葉は、私には他力本願のことを述べられたと思えてしまいます。
佛のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死 をはなれ佛となる

六、無生の生
 死んだらお浄土へ行くのじゃないんか・・・
魂が往くんじゃないよ。じゃあ、何が浄土へいくんよ。
 中国浄土教の祖師曇鸞大師(四七六〜五四二)が次のようなことを述べられています。
 (浄土論の)はじめの章に「 帰命無礙光如来願生安楽国」といへり。このなかに疑あり。疑ひていふこころは、「 生」は有の本、衆累(わずらい)の元たり。生を棄てて生を願ず、生なんぞ尽くべきと。
 この疑を釈せんがために、このゆゑにかの浄土の荘厳功徳成就を観ず。かの浄 土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときには あらざることを明かすなり。なにをもつてこれをいふとならば、それ法性は清 浄にして畢竟無生なり。生といふはこれ得生のひとの情なるのみ。生まことに 無生なれば、生なんぞ尽くるところあらん。それ生を尽くさば・・・その生の理を体する、これを浄土といふ。浄土の宅はいはゆる十七句これなり。
・・・
 問ひていはく、なんの義によりてか往生と説く。
答へていはく、この間の仮名人のなかにおいて五念門を修するに、前念は後念のために因となる。穢土の仮名人と浄土の仮名人と、決定して一なるを得ず、決定して異なるを得ず。前心後心またかくのごとし。なにをもつてのゆゑに。もし一ならばすなはち因果なく、もし異ならばすなはち相続にあらざればなり。
         『 往生論註』 曇鸞大師
 『 天親菩薩が「 安楽国に生まれることを願う。」と仰っている。しかし、生は様々なわずらいの元であり、私たちが「 この世で死んで、あの世に生まれることを願う。」というような「 この」と「 あの」を差別する心で往生を願うならば、いつまでたっても「 迷いの生」は尽きることはない。それなのに、また生を願われたのはなぜか。』という問いを立てられ、それに対して自ら答えられています。
 まず、浄土は本願の「 無生の生」であると定義されています。「 無生の生」とはどういう意味でしょうか。私たちが、「 死んだら極楽に生まれたい。」という「 生」とは違います。「 法性は清浄にして無生である。」そもそも諸法は因縁によって生じるのだから実体として生があるというわけではありません(先ほどの魚の例)。天親菩薩が願われた生はこの因縁による生であって、凡夫が囚われるような迷いの生死ではありません。
 そして、「 願生」というのは私たちのやむにやまれぬ情であると言われています。欲界・ 色界・ 無色界の三有を衆生が輪廻していくような生を求めるのではないけれど、全く新しい生を願うとしか言いようがないということであります。
 「 浄土に往生したい」と言うのも、得生の人(新しい生を求めた人)のそう言わざるをえない心情であります。もし、あなたが迷いの世界の人から浄土の人となったときに、それは同じ人であるともいえないし、全く違う人とも言えないように、清浄な世界に生まれ変わったとしか言いようがないのです。
 そして、浄土の生は無生であり、無生だから浄土では生は尽きるところがない…生(いのち)が終わることはない。さらに「 無生の生」の道理を体得させる場所が浄土であると言われています。
 これが浄土のイメージでしょうか。浄土(無生の生)が無いと、菩提心も仏も智慧の光も無いのです。


     二〇〇七、五
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