葬式を大事にする仏教と葬儀の商品化

 仏教が葬式仏教と批判されて久しい。でも、寺にとって葬儀は大事な法事。そして、人が亡くなることは何よりも悲しいことであり、知己にとっては別れは辛いもの。
 だからこそ、葬儀をどう大事にしていくのか。葬儀の商品化に対してどうしていったらよいのか考えてみたい。

葬儀の商品化

 郡上で一年間に亡くなる方は約五百人。日本では年間百一万四千九百五十一人(平成一五年人口動態統計)、世界では、約五千九百六十万六千人(データブック オブ ザ ワールド)だそうだ。
 換算すると、日本で一分間に約二人、世界では一分間に約百八人死んでいる事になる。おびただしい数の死者である。死は日常なのである。
 近くの市では、結婚式場がセレモニーに変わった。もちろん経営者も変わったのだが、これから結婚をする若い人はだんだん少なくなり、年寄りが増えていくことを見越した経営方針なのだろう。
 当市でも、セレモニー(葬儀場)がここ二〜三年で五箇所もできた。それは、団塊の世代を当てにしてのことと思われる。今後、二〜三十年は固い商売となる見通しがあるからだろう。
 さて、気になる葬儀の費用はどれくらいだろうか。百五十万円〜二百万円。日本の平均は三百四十六万円と言われている。さらに、寺へのお布施も馬鹿にならない。
 かって葬儀は隣組で行っていた。その葬儀のやり方が大きく変わってきている。簡単に言えば葬儀が商品になってきているのだ。

悲しみもサービスも商品

 「 荘厳壇は松竹梅と三種類ありますが、どれにしましょう。」と尋ねられる。悲しみは癒しになり、癒しはサービスになり、そして商品となり、最後はお金に転化する。もちろん、サービスに心がこもっていなければ伝わらないし、現に心のこもったサービスをするセレモニーもある。
   隣近所でやっていたときは、お互い様であった。女衆は炊き出しに、男衆は輿を作ったり力仕事を手伝った。もちろん手間賃はない。場所も自宅のふすまを取っ払って行った。考えてみれば、そういった地域で共同でやる行事は、かってたくさんあった。

「 公」と「 共」と「 私」

 私たちが社会生活をおくる上で、その生産的な部分を「 公」と「 共」と「 私」の三つに分けて考えると商品化のことが良くわかる。
 葬儀を例に取ると、火葬場は社会生活の公的部門(化)。自宅で「 結い」で行う葬儀は共同的部門。セレモニーで行う葬儀は私的部門(化)。この私的と言うのは利益を上げるということからきている。
 もちろん、この三つの部門は社会生活をおくる上で全て必要である。食事で言うと、公は学校給食、私はレストランや食堂、共は地域で行う運動会などでみんなで共同で作って食べ合うことをさすが、それぞれが大事な役割を持っている。
 この場合、私的部門は商品を売買する形をとる。したがって、悲しみを癒すサービスも商品となる。ただ、最近の傾向では、商品というだけではなく、そこにどう心をこめるのかということも追求されていることは忘れてはならない。そういえば、寺は昔から商売であった。
 ただ、最近のグローバル化の流れは、公的部門をどんどん私的部門に転化している。「 市場化」と言ってもよい。郵便局の民営化などがそれである。それと同時に共同部門もだんだん私的部門に変わってきている。結婚式もかっては自宅で「 結い」で行っていた。もちろん法事もそうである。もう随分昔から結婚式も法事も式場や店で行っている。その中で報恩講は残された数少ない共同的部門だろう。
 街中で、葬儀をセレモニーで行うのはなぜか聞いてみると、自宅でやると近所の人に申し訳ないという返事が返ってくる。仕事を休んで手伝ってもらうなんて気の毒だというのである。
 もう町では当然になっているセレモニーでの葬儀も、この田舎ではまだまだだが、これからどうなっていくのかその行く末を見届けたい。

 でも、最後に紹介したい話がある。近所のおじいさんが、木を切って割り薪を作っていた。その薪をどうするのかと聞くと、
 「 この薪は、わしの葬式のとき暖をとってもらう為に置いておくんじゃ。寒い時にわざわざ来てもらうのは気の毒じゃでな。」
と言われたことを思い出す。
 

信心がなくても浄土に往生できるのか

 かって葬儀でいつも悩んでいたことがある。信心のあった人の場合とそうでなかった人の場合である。信心のない人に「 お浄土に往かれました」と言って良いものだろうかと悩んだのである。
 それは、私自身の信心がある人と信心のない人を差別する心から来る悩みだった。私自身が信心を獲得(ぎゃくとく)しているのか心もとないのに。信心を獲得していてもしていなくとも救うのが仏だと思い至れば、何も悩むことはなかった。
 人間の一生はどんな人生でも大事なものだ。そして、そこから学ぶべきことは数限りなくある。そういう意味で、みな還相の菩薩なのだ。だから、死は可哀想なものでも哀れむべきものでも情けないものでもない。一人の人間がその人しか生きられない「 いのち」を生き、誰も代われることのできない死を死んでゆく。葬儀はそのことに思いを致し、我が身を振り返る大切な「 法事」なのだ。
諸善万行ことごとく  至心発願せるゆゑに  往生浄土の方便の  善とならぬはなかりけり
              浄土和讃  愚禿親鸞作
      二〇〇七、一一
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