この世は全てバーチャルである

 … ネットゲームの世界も現実の一つ … 


一、デジタルネイティブ

 「 生まれた時からTVがある」 「 生まれた時からゲーム機がある」 「 生まれた時から携帯がある」 「 生まれた時からパソコンがある」 「 生まれた時からインターネットにつながっている」 「 生まれた時から・・・」
 こういう人たちを「 〜ネイティブ」というらしい。ネイティブとそうでないものには違いがあるのだろうか。
 先日(昨年の年末)、TV番組で「 デジタルネイティブ」について放送していた。アフリカの電気も来ていない所の高校生が、ネットカフェに通いながらアメリカの通信制の大学を卒業し、エイズの問題について世界中に発信しているとか、中学生がネットを使って起業したとかやっていた。確かに彼らはすごい発想をしている。
 では、身近に居る日本の子どもたちは、ネットやコンピュータをどう使っているのだろうか。ネットが子どもたちにどういう影響を与えているのかを調べるために、子どもたちにインタビューをすることにした。

 中三で受験間近なのにネットゲームにはまって、「 昨日は百人殺した」などという物騒なことを言っているという男子三人に集まってもらった。
 まず、ネットゲームの仕組みを説明してもらった。


二、ネットゲームの料金制度とルール

 このFPSというゲームは韓国が発祥で、現在のべ数十万人の人が参加していて、常時数千人がネット上に居るらしい。ゲームは単純で、シューティングや格闘をするサバイバルゲームだが、RPGではなく終わりが見えないのでいつまでも楽しめるらしい。しかも、スカイプ(マイクを使って電話のように話ができる)があるので、チャットで話すよりも面白いという。
 子どもたちは参加料が無料であることを強調していたが、ゲーム製作(運営)企業である限り儲けなければ社員に給料を払えないはず。そこを聞くと、基本プレイ料金は無料だがゲーム内に登場するアイテムを販売して利益を得るアイテム課金だという。これは、ネットゲーム会社間で競争が激しくなって、月額参加料徴収から変化してきたらしい。
 じゃあ、アイテムはどこで買うのと聞くと、コンビニで売っているという。五百円で購入でき、それを開くとパスワードが書いてあって、それを使ってネットの店で購入できる仕組みだ。
 ゲーム内の貨幣やアイテムを現実世界で売買するウェブマネーはあるのかと聞くと、僕たちはやっていないという。どうやら、アイテムを使わないというポリシーの人たちだけでゲームをやっているという。最初にそういう約束をするという。参加者は最初にチームを組み、一応相談するらしい。ただ、小学生などが参加していて、雰囲気を壊すと文句を言っていた。
 アイテムは一度買えば良いのではなく、期間限定でたいていは、三十日だそうである。すると、いつも装備するには金額がかかることはわかる。尊敬されたくてアイテムを買い、どんどんつぎ込むということになる。
 ルールが厳しく暴言を吐いて訴えられるとアカウント(一人で何個も持っている)を使えなくする2週間の出場停止処分を受ける。また、大会があり、賞金が十万円。アジア杯もあり、韓国・中国・日本が参加している。
 ゲームは八人と八人の対戦。様々な場所の部屋があり、そこへ入って行き、仲間が集まるのを待つ。知らない人とはマイクは使わず、チャット(タイピング)で話す。マイクだと自分の名前や住所などをいう可能性があるからまずいと、けっこう用心深い。


三、ゲームはコミュニケーション

 ゲームをやる時間は、九時から十一時ごろらしい。ゲームをしているとあっという間に時間が過ぎ、一時や二時ごろになってしまうから気をつけているとのこと。
 ゲームをやりすぎて勉強がやばいということはないの?と聞くと、親が時々見に来るし、パソコンを買うときの約束だから時間内にやめているという。また、ゲームをしながら勉強するという。自分が「 死んだ」とき、次のゲームの開始まで待っている間に勉強するのだ。
 もうじき受験だけど続けるの?と聞くと、一人はもうやめるという。そして、高校に入ったらやらないと決意を述べた。後の二人は顔を見合わせながら、やめるとは言わない。でも、入試が終わるまでは十一時ごろには終わるつもりと話していた。
 他の中学生との交流は?と聞くと、他の学校の人とは話がかみ合わないと素っ気がない。良い子は鐘がなったら帰るけど、僕たちは夜の九時に再集合しているという。同じ学校の生徒同士が何人か同じ場所(部屋)に集まり、数時間話している。ネットゲームは夜の集まる場所なのだ。話すことは、ゲーム内の情報半分、後は学校のことだという。
 ネットではないがゲームにはまっている子が、「 ゲームは一つの世界で、現実に起きたことも、ゲームに当てはめて考えている。」と話してくれた子がいた。彼は、現実に起きることもゲームの世界でおきた物語と同じだととらえて対応しているらしいのだ。
 最後に、かなりのベテランだと自他共に認めるT君に話を聞いた。
 面白さは何?と聞くと、年齢が違う人との交流があること。高校生から二十代の後半までが多く、全く知らない人ともチームを作る。仲間がやられても、一人で相手を倒すと、うまいねと声をかけられてうれしい。負けても励ましてくれるという。


四、ネットゲームでチーム(仲間)づくり

 チームの作り方について聞いてみた。「 のら」という偶然集まった人が作るチーム。数は圧倒的に多く、対戦の記録は個人のポイントとなる。ポイントを稼ぐと、兵隊の階級が高くなる。もう一つ、「 クラン」というチームがある。こちらはチャットで声をかけながらある程度わかる人たちと組んで対戦する。クラン戦はチーム勝率がでる。当然そこにはリーダーがいる。強い人がリーダーになるとは限らない。
 勝敗にこだわって失敗すると「 何やっているんだ!」と怒る人がいる。だから僕は、チームの募集要項には「 空気を悪くする人は入れません」と書いている。また、「 死ん」でも仲間のプレーを見てアドバイスをする。
 勝率が高くなると有名になり、クラン名とマークがつき階級も上がり尊敬される。チャットで仲良くなった知らない人から「 友だち登録」していいですかと聞かれる。承諾すると、その人の居場所がわかりすぐにそこに駆けつけチームを組むことができる。
 やって良かったことは何?と聞くと、ゲームの前は知らなかったパソコンに詳しくなったことと、自分が変わったことと答えた。
 スカイプのコンタクトが増え、他人との交流も恥ずかしくなくなった。僕は人との交流が苦手(現実世界で)だったけど、免疫もついた。そして、ゲームは心が広い人でないと楽しめないと、生き生きと話してくれた。


五、みんなに認めてもらいたい

 彼は、ゲームの世界の中で自己実現を果たしている。自分を変えたい、尊敬されたいという願いを持っている。ゲームの世界では、みんなから認めてもらえるのだ。しかも数万人という世界の中で。
 私たちは、でも現実はどうなのだろうかと思ってしまう。コミュニケーションスキルを求めて、ネットゲームに入ったのに、かえって現実世界から離れてしまっているというのではないかと考えてしまう。実際に、同じゲームをやっているのに、クラスの人たちと出会うこともないみたいなのだ。階級が違うといってしまえば、何だか現実っぽくなる。


六、この世は全てバーチャルである … 現実世界と虚構の世界

   「 実体があるわけではない。現象があるだけなのだ

 しかし、彼らにとってはバーチャルな世界もまた現実の一つなのだ。仏法では、私たちが実際にあると思っている世界がそれほど確かなものではないということを教えている。世間虚仮である。諸法無我である。無自性・空である。
 とすると、私たちは、現実世界が確かなもので、バーチャルな世界は虚構の世界と考えるのではなくて、全てが虚構の世界ととらえた方が正しいのではないだろうか。

   「 バーチャルな時代

 現代は次のように変化しているととらえる視点がある。見田宗介氏の考えである。

 理想の時代→夢の時代→虚構の時代→バーチャルな時代

 なるほど、現代を生きてきた私としては納得できる変化である。虚構とは、事実ではないことを事実らしくつくり上げることをいう。文芸作品などで、作者の想像力によって、人物・出来事・場面などを現実であるかのように組み立てることである。そして、虚構だからこそかえって真実を伝えることがある。しかし、夢が虚構になってきたというのも、時代の変化としては肯かざるを得ない。
 さらに、「 バーチャルな時代」とは、虚構を虚構として捉えるのではなく、虚構を現実にしていく時代であるという。金融派生商品(デリバティブ)などを見ているとまさにこれであろう。そして、時代はもっと先に進んでいるのかもしれない。
 「 バーチャルリアリティ」とはコンピュータ上に作られた世界を、実際の感覚を通して体感する技術およびその世界のことである。今、子どもたちが生きている世界はこういう世界かもしれない。
 だから、『 別世界への逃避ではなく、現実世界が変わらないなら、現実世界の「 認識」を変えてしまえ!』という話になる。虚構の方を現実だと考えようということである。
 しかし、現実がもともと虚構(バーチャル)であったとしたら、堂々巡りである。虚構の上に虚構を積み重ねても空しい。大事なことはもっと別にあるのではないか。
 それは、そこにおける関係性の方を注目することであり、それを認識している自分自身とは何であるかということを考えることである。先にあげたネットゲームで言うと、彼の他人とつながりたいという願いを知ることであり、それを知ったことで、すでに関係性が変化しているととらえることである。

    仏暦二五五二年 九月

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