蜘蛛の糸を廻る二つの物語

芥川龍之介 「蜘蛛の糸」

 久しぶりに芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読んだ。前には気がつかなかった疑問が浮かんできた。

(一)最初に気になるのが「 話者」は誰かということだ。この話者はまるで遥かな宇宙から極楽と地獄を覗いているみたいだ。それは人間なのだろうか。お釈迦様(極楽の主は阿弥陀様である)のことを尊敬語で書いているから、どうやら我々と同じ眼である。
 「 話者」って作者じゃないかと思われるかもしれない。でも、作者は物語を書く時にどういう視点から書こうか考える。カンダタの視点から書こうか、お釈迦様の視点から書こうかと。ところが作者は地獄でもない極楽でもない全く別の視点から書いている。それは極楽の描写が客観的であることからも示されており、またこのことが極楽を相対化する視点を読者に与えている。

(二)「 それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。」
 この覚えがあるのは誰なのだろうか? 話者だとすると、この話者は神の視点を持っていることになる。お釈迦様だとすると、後で「 御思い出しになりました。」という文章と矛盾する。カンダタ本人とすると、不自然である。ストーリーを見る限り、カンダタに良いことをしたという自覚がなく、覚えていたとは思われないからだ。
 しかし、文体からカンダタに覚えがあると解釈するしかない。これが違和感を感じさせる。もし、覚えが無いとしたら、改心のチャンスは、突然説明も無く現れた一本の蜘蛛の糸ということになる。それではお釈迦様の行為はあまりにも無慈悲である。しかし、覚えがあるとしたら全く違う解釈になる。覚えがあるのに、この糸をあの時に助けた蜘蛛のおかげなのだと思わなかったからだ。

(三)自分が生涯たった一つ良いことをしたから蜘蛛の糸が下りてきたのだということをカンダタは自覚していない。自覚していなくては、感謝の言葉もでない。改心の心も出てこない。
 そもそも、この地獄にいる人々が後悔をしている様子はどこにも描写されていない。作者の関心は改心にはない。しかし、読者はこれを改心の物語として読んでしまう。
 子どもの頃、この物語を初めて読んだとき、カンダタはどう言えば良かったのだろうかと考えたことがある。「 糸が細いから一人ずつ順番に上がって来い。」と言えばよかったのか。「 俺のものだ」と言ったのがいけなかったとか。
 ところが、だんだんと自分を知っていくにしたがって、私もやっぱりカンダタと同じ様に言ってしまうだろうと思うようになった。私も救われない人間ということになる。これが主題なのだろうか。

(四)この物語は三つの部分に分かれている。あまりにも説明的すぎる三はなぜ必要だったのだろうか。
 それは、糸を切ったのはお釈迦様ではないということを示すためであろう。何か別の力が糸を切ってしまったのだ。それが自然の法則のように存在していて、たとえ仏であってもできることは糸をたらすことぐらいということ。つまりお釈迦様の慈悲も人間の「 エゴ」の前では無力に描かれている。

(五)「 ある日の事・・・極楽は丁度朝なのでございましょう。」
   「 極楽ももう午に近くなったのでございましょう。」
 この最初の文章と、最後の文章の意味が気になる。妙に現実的なのである。作者が極楽の描写に朝と昼を取り上げたのは、時間も無いらしい地獄との対比と同時に、現実の私たちの日常の世界を連想させる。つまり、お午に近くなったという文が、今読んでいる読者自身の立場を自覚させる効果をもたらす。
 そこで、もうひとつの主題が思いつく。それはこの地獄と極楽のどちらも私たちの生きている世界であるということだ。現世は地獄であり、蠢(うごめ)きあって無自覚に懺悔もせず生きているのは他ならぬ私たちである。蜘蛛の糸はそこから抜け出すチャンスであるが、それが慈悲の糸である事に気がつかず、独り占めしようとするのが我々人間の浅ましい有様なのではないかと。また、読み終わってふと振り返る自分の今を、極楽に例えることができるのではないかと。
 作者は最後にお釈迦様の目でそれを示し、さらにそのお釈迦様をも蓮の花の描写で相対化している。その視点はあくまで客観的である。


 ドストエフスキーの「 カラマーゾフの兄弟」に同様の話があることを知ったのは、サイトを検索してからである。

 グルーシェンカという女が「 一本の葱」の話をする場面がある。カラマーゾフの父と長男が彼女をめぐって争うことから、彼女はカラマーゾフ父子を手玉にとる悪女だと思われている。グルーシェンカは若い魅力的な不幸な境遇の女性である。三男のアリョーシャと出会った時に、彼女は自分のことを姉と呼んでくれたことを感謝しながら「 あたしは悪い女だけれど、それでもお葱をあげたことがあるんですからね。」と言って、「 一本の葱の話」をする。

「 一本の葱」

『昔むかし、一人の根性曲りの女がいて、死んだのね。そして死んだあと、一つの善行も残らなかったので、悪魔たちはその女をつかまえて、火の池に放りこんだんですって。
 その女の守護天使はじっと立って、何か神さまに報告できるような善行を思いだそうと考えているうちに、やっと思いだして、神さまにこう言ったのね。あの女は野菜畑で葱を一本ぬいて、乞食にやったことがありますって。
 すると神さまはこう答えたんだわ。それなら、その葱をとってきて、火の池にいる女にさしのべてやるがよい。それにつかまらせて、ひっぱるのだ。もし池から女を引きだせたら、天国に入れてやるがいいし、もし葱がちぎれたら、女は今いる場所にそのまま留まらせるのだ。
 天使は女のところに走って、葱をさしのべてやったのね。さ、女よ、これにつかまって、ぬけでるがいい。そして天使はそろそろとひっぱりはじめたの。ところがすっかり引きあげそうになったとき、池にいたほかの罪びとたちが、女が引き上げられているのを見て、いっしょに引きだしてもらおうと、みんなして女にしがみついたんですって。
 ところがその女は根性曲りなんで、足で蹴落としにかかったんだわ。
「 わたしが引き上げてもらってるんだよ、あんたたちじゃないんだ。これはわたしの葱だ、あんたたちのじゃないよ」
女がこう言い終ったとたん、葱はぷつんとちぎれてしまったの。そして女は火の池に落ちて、いまだに燃えつづけているのよ。天使は泣きだして、立ち去ったんですって。』(第七編第三章) (原卓也訳)
 グルーシェンカは、
「 あたしそらで覚えているのよ。だってこのあたしはその意地悪婆さんなんですもの。」と言う。そして、「 あたしがいいことをしたなんてせいぜいそんなものなのよ。あたしは意地の悪い、それはそれは悪い女なんだから。」
とアリョーシャに語る。

 全く同じ様な展開である。しかし、こちらの話は「 蜘蛛の糸」よりも共感しやすい。ひとつはこのお婆さんにも守護天使がいて、必死で救おうとしている所である。守護天使が泣き出して立ち去る所は琴線に訴えてくる。もうひとつはグルーシェンカが、この婆さんと私は同じだと言っている点である。彼女は自分のことを悪人と言っている。彼女がたまらなく愛おしくなる。
 この二つの点において、「 蜘蛛の糸」よりも「 一本の葱」の方が、浄土の教えに近い。グルーシェンカは妙好人なのである。ドストエフスキーの小説には彼女のような「 聖なる娼婦」がたびたび登場してくる。彼女は広大なロシアの大地に根ざした妙好人である。


 さて、芥川であるが、ウィキペディアによると彼が「 蜘蛛の糸」の参考にした原典が鈴木大拙による「 因果の小車」(ポール・ケーラス作「 カルマ」の邦訳)らしい。この作品を読んでびっくりした。まず、あらすじだけを書いておこう。

「 因果の小車」

 悪事を働いていた盗賊マハードータが、仲間の裏切りにあって瀕死の重傷を負った。手当てをしてくれた僧に懺悔しながらたずねた。
「 私は多くの悪事を働き、良いことは一つもしていない。どうしたら我執の妄念の織りなした罪の網から遁れることができるのだろうか。私の罪は私を地獄に導くだろう。解脱の道を聞くことができないのだろうか。」
 その僧は、
「 善因善果、悪因悪果は天の道だから、あなたが今生でなした罪業はめぐりめぐって来生に報いきたるだろう。でも、失望する必要はない。真の教に帰して、我執の妄念を除いたものは、一切の情念罪慾を離れて、自他を利生し、救われる。」
と語り、一つの例えを示そうとカンダタの話を始める。

『 悪人カンダタは懺悔せずに死んだので、地獄に堕落して永遠の苦痛を受けている。
 ある時、世に仏陀が現われてさとりを得られた。その仏の光明は奈落の底までも届いた。地獄の罪人達は喜び希望を持った。カンダタは、
「 大慈大悲の御仏よ。私は罪を犯したけれど正道を蹈まんという心が無いわけではありません。しかし、どうしてもこの苦界を出ることができません。私を憐み救ってください。」
と願う。
 悪因悪果は業報の定理であるが、徹頭徹尾、罪悪の化身となれるものはいない。小さな善といえどもその中には新しい善の種子あるので、いきいきと成長して枯れることはない。それは三界を輪廻している私たちの心を養い、遂には万悪を除いて涅槃に導く。
 仏は地獄の中で悩めるカンダタの熱望を聞き、尋ねる。
「 汝はかって仁愛の行いをなしたことがないか。もしあるならそれが汝をたすける筈である。もし無かったら、汝は罪業の応報によりて厳しく苦しめられる。仁愛によって一切の我執を脱し、貪瞋痴の三毒を洗うのでなければ、永劫に解脱の機会はないだろう。」
 カンダタは思い出すことができなかったが、如来は神通力でカンダタの一生の行いをサーチし、彼が蜘蛛を踏み殺すのはかわいそうだと思ったことを見つける。そこで、仏は蜘蛛の糸を垂らし、蜘蛛に「 この糸を頼って昇り来れ」と伝えよと命じる。
 蜘蛛の糸は細く弱く簡単に切れてしまうように思われたが、不思議にも彼がつかまっても切れなかった。最初、彼は上の方ばかり向いて賢明に登っていた。
 ところが、糸が揺れ数限りない罪人達がぶら下がって登ってきているのを見て、今度は下に心を取られて信仰が乱れて来た。この細い糸が無数の人々を扶け上げることができるのだろうかと、疑念の心が浮かんできて恐怖を感じるのを止めることはできなかった。
 思わず
「 去れ去れ。この糸は私のものだ。」
と絶叫した瞬間に糸は切れ、其の身はまた元の奈落の底に落ちてしまった。
 〈我執の妄念〉は、なおカンダタの胸中にわだかまっていたのだ。彼は、一心に上を目指して登り続けるという正道の本地に到る〈信心の一念〉に、どれほどの不可思議な力があるかということを理解していなかった。
 〈信心の一念〉がか細いことは蜘蛛の糸と同じだが、全ての衆生はこの糸に牽かれて解脱の道に至る。その衆生の数が多ければ多いほどこの道は正しい道であるし、登り易い道となる。
 しかし、一たび〈我執の念〉にとらわれ、「 これは私のものだ。正道の福徳は私だけのものだ。」と思えば、一縷の糸はたちまち切れ、もとの我執の地獄におちいってしまう。そもそも地獄とは我執の別の名であり、涅槃は正道の生涯に外ならない。』

 これを聞いて、瀕死の盗賊マハードータは、
「 私に蜘蛛の糸を取らせてくれたら、一心に糸を登るだろう。」
と決意し、盗んだ財宝のありかを教えて死ぬ。


 なんと、一本の「 蜘蛛の糸」は、地獄から極楽へ抜け出る道具ではなく、「 信心の道」であった。カンダタが再び地獄に落ちたのは、その一本の糸を信じられなかったからであり、それは「 我執の念」にまだ囚われていたからだと。そして、マハードータはまさに信心を獲得して死んだのである。
 つまり、この「 蜘蛛の糸」は「 二河白道」なのだ。「 汝一心に正念してただちに来たれ、我よく汝を護らん。」この「 我よく汝を護らん」がなく、行者の自力の信心が強調されてはいるが、ここにグルーシェンカの自覚を伴えば、他力の信心をうながしている説話になり、守護天使は法蔵菩薩になる。私は「 蜘蛛の糸」から「 二河白道」につながるとは想像すらしていなかった。

 ここには極楽が描かれていない。極楽の代わりに涅槃と「 解脱の道」が示されている。その「 解脱の道」が「 蜘蛛の糸」なのだ。だから「 解脱の道」=「 信心の道」となっている。
 糸を登っていくという行(ぎょう)が信心の道であり、それがすなわち浄土である。正道の本地はさとりであり、浄土であり、信心の一念である。蜘蛛の糸は念仏となる。

 芥川は、原典には無い極楽をなぜ入れたのだろうか。なぜ改心(回心)をテーマに入れなかったのだろうか。そもそも極楽を入れたなら、なぜ他力の救いを書こうとしなかったのだろうか。
 「 因果の小車」と「 蜘蛛の糸」を対比することで面白いことが見つかるかもしれない。

 ここで取り上げた三つの作品は、同じエピソードを取り上げながら、それぞれの主題(テーマ)が違っている。「 蜘蛛の糸」は人間の自己中心性・我執の救われがたさとその自覚をテーマとし、「 一本の葱」は人間の罪とその悲しみをテーマとし、「 因果の小車」は二河白道=信心の道が救いの道であることをテーマとしている。

 もとよりこれはそれぞれの読者の読み取りに依ることは当然であり、私の勝手な解釈であるが、この三つの物語がつながることでまた新しい物語が生まれてくる。

    仏暦二五五二年十一月

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