関東ご旧跡巡拝の旅

親鸞さんと出会う

 昨年は、関東の親鸞聖人ご旧跡を訪ねる機会が二度ありました。
 一度目は高田の専修寺、二度目は常陸の願入寺、西念寺、大覚寺です。

 大きな収穫は如信上人との出会いです。
 そして、真宗の初期の状態がぼんやり浮かんできました。


一、専修寺・・・信州善光寺如来と聖徳太子

 七月二一日、埼玉から栃木までわざわざ車で案内してもらいました。 真岡市の高田にある専修寺。 親鸞さんは関東で二〇年の布教生活をおくられました。 それは草庵に住まれての家族と一緒の生活でした。 後半十年ほどで寺院を建立されたと聞きました。 それがこの高田の専修寺。 そして、善光寺から一光三尊仏を招き本尊とされます。

 御輪番の鈴木師から様々なお話をうかがいました。 郡上八幡との意外なご縁をうかがい、不思議に思ったものでした。 この御本尊を肩に担いで運んでこられた笈(おい)があり、そんなに大きくはなかったとのこと。 恵信尼のことが伝わっていないこと、 三代目の顕智上人のお話等々とても興味深かいものでした。
本寺真岡専修寺
 如来堂は聖徳太子が前面に現われていました。 また、 こうやって実際に訪ねると、親鸞聖人の関東での行跡が浮かんできます。 門前のケヤキの大木は樹齢八百年と言われる見事な木でした。
 車の中で、様々な話ができたことも忘れることのできない思い出です。 貴重な体験でした。
 次は二回目、九月一六・一七日の関東ご旧跡巡拝の旅。

二、関東巡拝の旅

 一昨日と昨日の二日間、郡上組のビハーラで関東の御開山のご旧跡を巡拝しました。 バスに添乗をしていただいた名鉄観光の佐藤部長が、
「 旅は3回楽しめる。行く前、当日、そして帰ってきてから」
と語られたことに感銘し、少し記録しておこうと思います。

 台風の前に関東に旅立ち、ついには甲府で台風が追い付き目の中に、 そして、東京の築地本願寺で昼食の間に追い越されてしまいました。 途中、強風もありましたが、運転手さんの見事な運転で無事東京へ。

 築地の本願寺では讃仏偈を勤行して説明を受け、弁当をいただきました。 私は初めてのお参りでした。 インド様式の建築とその内部は荘厳でした。 若い方たちも参拝されていてさすがは東京だと感じました。 いただいた記念の冊子は、「 浄土真宗のこれから」と題され、 御門主と新門の対話形式で書かれていて興味深い内容でした。

 首都圏布教については、私たちにとって直接の課題ではなく あまり関心がありませんでしたが、新門の 「 現代人の苦悩と僧侶が説く法話の間にミスマッチがあるのではないか」 という提起は考えていかなければならないと思います。 現代人の苦悩とは何か、現代の問題に浄土真宗の教えはどういう答えを出せるのか これは首都圏だけでなく私たちの問題でもあります。

 昼食後、スカイツリーの横を通って水戸へ。
目的地は原始真宗大本山願入寺

三、如信上人のこと

 この寺の開基は親鸞聖人の孫である如信上人 五木さんの「 親鸞」を読んでおられる方は、 善鸞上人の長男だとお分かりだと思います。如信上人は著書はほとんど残っていませんが、 覚如上人の書かれた口伝鈔は、御開山から直接伝聞したことを如信上人が語られたものです。

 実は本堂には入ることができませんでした。 というのも大震災の地震で土台のコンクリートが割れ、崩壊の危険があるのです。 でも、新しく建て直したばかりで二年経っても修復のめどさえつかないというのです。 写真は立ち入り禁止の本堂と大きな鐘を撞いている所です。 寺域はとても広く、梅の木の梅も欲しい人に取ってもらっているとのこと。
 今井雅晴氏の「 親鸞と如信」を購入しました。なかなか興味深い本です。 また、親鸞聖人高弟二十四輩の原本があり、その写真を詳しく読ませていただきました。

 今回の旅で、前もっていただいた資料を読み勉強をしました。 旅に出る前の楽しみの一つでしたが、その中で、如信上人のことが気にかかり出しました。

 少し説明をします。如信上人は大網( たぶん福島県)で布教をして大網門徒を育てました。 やがて大洗の地に願入寺が移ります。大洗は鹿島灘に面して少し突き出ています。 願入寺の若院さんの話によると、この地は自然災害の少ない穏やかな気候で、土地も肥えていて人々もゆったりしているということでした。 水戸のすぐ側ですから水戸黄門こと光圀公との関係も深く、如信上人の木像は光圀公が作られたものです。
 お話の中で、如信上人は亡くなるまで托鉢で集めたお米を背負って毎年京都に上り、報恩講を務められたといわれました。心に残るエピソードでした。

四、大洗のホテル

 宿泊は大洗ホテル。すぐ側が海岸で、台風十八号の影響で大波が押し寄せていました。 砂浜を散歩すると、太平洋がどこまでも広がっています。 夕日が灯台を照らしてとてもきれいでした。右の方にはかすかに犬吠埼が見えます。

 夕食の宴会は皆さんのバイタリティに圧倒されました。 食事の後も飲みながら議論を重ね、いくつもの課題を持つことができました。 でも、長時間のバス旅行で疲れてしまって、参加者の中では若い私が先に寝てしまいました。

 しかし、布団に入ってからはなかなか眠られず、 朝五時頃起きて日の出を見ようと思っていたら、目が覚めたのは5時半でした。 フロントの若い女性の係りに聞くと、震災当日に津波が押し寄せてきて裏山に逃げたそうです。 ちょうど玄関を開けていたので、一階部分を波が通り過ぎて行ったと語ってくれました。

 朝食はバイキング。たくさん食べました。

五、稲田御坊西念寺

 目的地は稲田御坊・西念寺
 この寺は御開山が関東布教の中心として住まわれた稲田草庵の跡に建てられた寺です。 関東平野を横切っていた時には山はありませんでした。 やがて筑波山が見えてきましたが、はるかに遠くです。 ここは加波山と吾国山が折り重なり、 御開山にとっては比叡の山を思い出すところだったのでしょう。
 関東の同朋同行たちは、この地から大体三十qの所に住んでいました。 御開山は一日かけて歩いていき、夜布教をしました。 そもそも話を聞きに来る人たちは昼間は働いていて、夜しか聞くことはできないのです。 そして、その日はそこに泊まって、次の日に稲田に帰るという二日がかりの関東布教であったということをご住職が語られました。

 若院さんに案内してもらって、裏山や庭、手前の田んぼまで歩きました。 大きくて立派な本堂の向こうに山が見えました。

(一)浄土真宗開闢の霊地の碑
御開山は布教をしながらこの地で教行信証の執筆をはじめられました。

(二)「 お葉つき銀杏」の木は稲田草庵の庭に御開山が葉に実を包んでお手植えになったといいます。
探すと確かに葉から実が出ているものがありました。 


(三)「 見返りの橋」は、ここで二十年住まわれ、帰洛されるときにどうやら恵信尼らご家族と別れたらしいのです。
寺の前で振り返って過ぎし日の思い出と、もう見ることのできない景色を焼き付けられたのでしょう。

 別れじを さのみなげくな法の友
      また会う国の ありと思えば
                親鸞聖人


六、恵信尼公と親鸞聖人の絵像

 この本堂には、内陣より向って右側の本間壇上に「 宗祖親鸞聖人御影像」、左側の本間壇上に「 恵信尼公御影像」を安置しています。お互いを観音菩薩と信じて疑わなかったお二人の姿は夫婦のありようを示してくださっています。
 御開山は二〇年過ごされた関東を後にされました。 なぜご苦労をされ自ら求めて行かれた関東を後にされたのでしょうか。

 今井雅晴先生( 筑波大学名誉教授)の本を読むと、当時の平均年齢は四十歳前後。 御開山は還暦を過ぎて先が短いと思われて望郷の念が高まったのであって、 その後、まさか九十歳まで生きて京都で三十年も過ごすとは思われなかった と書いてありました。

 もう一つ、以前から疑問を持っていたことに、唯信鈔の最後に
「 ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりな きゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしと りかへし書きつけたり。こころあらんひとはをかしくおもふべし、あざけり をなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚か なるものをこころえやすからんとてしるせるなり。」
(「 ゐなかのひとびと」は、経典などの文章を正しく汲み取れず、とても愚かなので、 わかりやすく理解させようと考えて、同じ内容を何度も書きました。)
 以前から、これはいったい誰に出した手紙なのだろうと疑問に思っていました。
 「 田舎の人々=関東の同行」とすると、文字の心を知らないと貶していることになり、 宛先に対して失礼と思えます。
 そもそも関東の門徒の仕送りのおかげで生活をしている御開山が 軽蔑の意味を込めて「 ゐなかのひとびと」などとは言うはずがありません。 今回の旅でわかったことは、関東の門徒二十四輩はほとんどが武士であったのです。
 出会った今井先生の本には、 「 そもそも関東の人々は教養が低く愚かだと短絡的に連想すべきではない」 と書かれています。

七、弁円の回心

 さて最後の訪問地は、 稲田の草庵から見えた二つの山、吾国山と加波山(筑波山につながっています) との間にある板敷峠を通って行く、山伏弁円で有名な板敷山大覚寺。 御開山はこの道を通って布教をされたのでしょう。

 ご多忙なご住職を引きとめてお話をうかがいました。 まず御開山の布教のご苦労です。 稲田から数キロメートル。前日に訪問地まで行き、夜法話をし、 宿泊して次の日に帰るわけですから、毎日歩いているわけです。 待ち伏せるのもなるほどです。
 お話の後、弁円さんの像や親鸞聖人の五十歳(だったかな)の像などを拝見しました。 弁円さんが御開山を見た瞬間にすでに弓矢を捨て弟子になったということは、 弁円さんのそれまでの葛藤も相当なものであったと想像ができます。 弁円さんは伝説の人ではないかと思われるかもしれませんが、 御開山のお手紙の中に、往生された明法房のこととして出てきます。 見事な往生であったことが伺われます。

 回心は、仏教では「 かいしん」と読まないで「 えしん」と読みます。
弁円さんの歌
 山も山 道も昔にかわらねど
      かわりはてたる 我がこころかな
 この歌は、親鸞さんを襲おうとした心をひるがえしたことを歌っていると思っていました。 今回の関東の旅でわかったことは、そのような一時の「 改心」を歌ったのではないということです。
 大覚寺には、百日の説法をした所という平たい石がありました。 弁円さんは百日間もの間、親鸞さんの話を聞いたのです。 一日ではありません。 これは、親鸞さんご自身が法然上人の話を百日間聞いたことを連想させますが、 何よりも弁円さんが求められたのは、念仏の中身だったのです。 そして、弁円さんはその後の生活の中で変わっていったご自身の心を歌われたのでしょう。
 そのこころの変化はどのようなモノだったのでしょう。 歌からはわかりません。 でも、それは親鸞さんのお手紙から想像できます。 人生の矛盾、人間の心の複雑さを聞き分ける智慧。 降りかかってくる運命にも順い、どのような苦難にも耐えてゆく心。 そして、自分の人生に合掌して終わっていけるような境地。

 浄土を願生するものとしての生き方として、如来から恵まれた念仏を称えさせていただく行。 そういう浄土からこの穢土を見つめる生活を振り返って、「 変わり果てた」と歌われたのでしょう。
 そして、弁円さんは七十二歳の見事な往生を遂げられたのです。

八、帰路

 その後、昼食は弁当。一路郡上へ。 途中に寄るサービスエリアでは、みなさんお土産をたくさん買われていました。
 雨の中の出発でしたが、向こうへ行ってからは傘は必要なし。 バスの中に置いてホテルへ入ったら、 翌日ちゃんと乾かしてたたんでそれぞれの座席に置いてありました。 ガイドさんありがとうございました。

 また、夜これからの郡上組の課題を坪井さんや筒井さんからお聞きすることができました。
○法話で「 〜と〜から聞いた」とか、「 〜がこう言っている」という話ではなく、  自身の体験として語ること。
○声明の音程を合わせること。その取り組みを。
○現在起きている世界の出来事を仏法ではどう見るのか。

考えなければならない課題として深く受け止めたいと感じました。 お酒を飲みながらこういった話ができるもの旅ならではのことです。 そして、何よりもこの旅を通して知り合いになったことも有り難いご縁です。

 組長さんをはじめ、ビハーラの方たちの心遣いを頼もしく感じました。 これで、つたない旅行記を閉じさせていただきます。 参加された方々、いろいろなエピソードを追加していただければ幸いです。 私はせっかくのご法話をすっかり忘れてしまいました。 思い出して書こうと思ったのですが、恥ずかしい限りです。


    仏暦二五五七年四月

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