二つに分かれる前の世界

一如の世界から見る

 法事が終わった後に、六十代の男性から、突然「 あの世はあるかと思うか?」と質問されました。
「 魂がさ迷うようなあの世はないけれど、浄土があることは知っている。」
と答えました。すると、
「 あの世は有ると言うことですね。でも最近、〜宗の坊さんでもあの世は無いと言っていると聞いた。あの世が無いと、この世は良くならない。あの世で罰せられるから、この世で正しく生きようとする。・・・」
と言われました。自らの体験から到達された考えなのです。そのお話の内容について、疑問な所はいろいろありましたが、そう信じておられることは十分にわかりました。

 「 あの世は、有るのか無いのか?」
 こういう問いを立てた時、私たちはどういう答えを期待しているのでしょうか。たぶん科学的に証明できるのかということでしょう。  でも、あの世を体験した人がこの世にいないことは直ぐにわかりますから、科学では証明できないこともわかります。
 そうすると、証明できるのかどうかではなく、「 なぜ人間はあの世とこの世を分けるのだろうか?」という疑問が浮かびます。  こちらの方が考え易いのです。
 この質問をされた方は、霊的な体験をされて、さらに、あの世が無いと、この世で悪いことをする人が多くなるので、あの世は有らねばならないし、  その証拠の体験もあると考えておられるのです。

 以前、妙好人の話で、「 前世の業」のことを取り上げました。  前世の業が現世の有り様を規定し、現世の行為が来世の生を規定するという考えは、この質問をされた方の意見と似ています。
 でも、現代の「 科学的・ 合理的」に生きている私たちにとって、あの世は迷信の様に思われます。  意識が脳の活動であるなら、脳の活動が停止したら意識はもう働かなくなります。  あの世とこの世、そして前世と現世と来世のことは確かめようのないことの一つになります。
 ところが、科学に取り囲まれているように思える子どもたちは、あの世や転生を信じているようなのです。  それはTVでやるオカルトの影響でもありますが、子どもたち自身の体験から来ているような気がします。
 ちなみに私自身は、誰かの生まれ変わりというような「 前世」や「 輪廻転生」、そして、魂が迷うような「 あの世」はないと思っています。

 釈尊は、そんなことを考えることよりも今をしっかり生きることが大切であるとのお考えから「 無記」を貫かれました。 はっきりしているように見える現世でさえ、私たちはわかっているのかと問われたのです。 さらに、縁起から、「 実体的な」魂のようなアートマンを否定されました。

 でも、昔から仏教では「 輪廻転生」を言っています。やっぱりあると考えた方が良いのでしょうか。
 この問いに、予想もしないような答え方をされた方がいるのです。こころの時代「 世界の中の仏教」で、故坂東性純先生が語っておられたことです。それは、鈴木大拙先生の話でした。

 アメリカのある大学での講座の折に、一人の大学生が、
 「 仏教では輪廻転生を言っていますが、先生は本当に輪廻転生を信じているのですか?」
と質問したのです。すると、大拙先生は、
 「 わしは猫が好きでなあ。ことによったらわしの前世は、猫だったかもしれんなぁ。」
と応えました。すると、これを聞いた学生は、手を打って納得したというのです。
 坂東先生は、大拙先生は二つに分かれる前の世界(=純粋経験)から語られたのだと話してみえました。確かに、「 あるか/ないか」という二つに分ける世界から語れば、それを証明をすることや説明をすることになります。でも、大拙先生は証明や説明はされなかったのです。

 この話を聞いた私は、道元禅師が語られたことを思い出しました。
人間に生まれてきて、仏法に出会えてよかった。これはもしかすると前世の善行のおかげかもしれない。そして、力及ばない自分がこの困難な修行を現世で成し遂げられないようなら、来世までも修行を続けよう。
 自分の善行の果が誰にもたらされようと、誰かの悪行の果が自分に降りかかろうと全て自分なのだ。こういう因果を超えた論理は、泥棒を迎えた妙好人の考えにも通じます。やはりこう言わざるを得ないと思うのです。仏道の行者の誠実な心情であり、そして、それは「 縁起としての前世や後世」の存在を示しています。
 ここには、自分の為した行為に対してきっぱり責任を持とうとする決意があります。様々な因縁から自分に降りかかる災難に対しても、正面から受けとめていこうという覚悟があります。

 「 あなたは浄土を見たのか?」「 あなたは浄土の実在を信じられるか?」このような、「 見た/見ない」「 信じる/信じない」という二つに分かれた世界から見るのではなく、二つに分かれる前の世界から見たらどう見えるのでしょうか。
 二つに分ける考え方を「 分別」といいます。まさに世界を二つに分けるのです。地獄と極楽、自力と他力、勝ち組と負け組、弱者と強者、理想と現実、有ると無い、聖と俗、真諦と俗諦、障害者と健常者、・・・
 二つに分けることで何が見えるのでしょうか。そこに対立を作り出し、さらなる幻想を作り出しているだけではないでしょうか。
 それは、科学にも言えることです。科学はモノを限り無く分けていくことによって、その性質や働きを明らかにしてきました。でも、それを使って、新しいモノを作ることはできるけれど、本当にモノゴトの本質を明らかにしてきたのでしょうか。
 坂東先生は、毒と薬の例をあげておられました。例えば、砂糖は毒にもなり薬にもなります。砂糖が変化するのではなく、周りの状況や量によって変わってくるのです。私たちはそういうひとつのものを、違うものとして見ているだけなのです。

 どうやら私も言語をもってモノゴトを二つに分けざるをえない人間のようです。二つに分けることによって問題点は明らかになりますが、また新たな問題を生み出します。これが永遠に続きます。世界は分けてもわかりません。分けたらそれを統合しなければならないのです。でも、二つのモノゴトがまったく違って見えると統合することが難しくなります。
 坂東先生は、それが「 絶対矛盾の自己同一」であると、西田幾多郎先生の哲学で説明しておられました。全く異なることのようにみえるコトが、実は同じ一つのコトであった。真理は、二つに分かれる前の世界=一如の世界にある。ここには二元論を否定する厳しい姿勢が貫かれています。
 如来はその一如の世界から来られた方です。真理が人格の形をして現れたのです。方便としてあえて二分法を設定し、それによって問題点を明らかにし、さらにそれを統一するという弁証法を示しながら。

 二種深信は地獄と浄土がひとつであることを示しています。自身の罪悪性を認識することは地獄であります。でも、それは如来の大悲に間違いなく救われるという確証でもあります。ここに、浄土と地獄がひとつになる世界が誕生します。浄土はユートピアではなかったのです。
恐ろしいことをしている、すまないことです、と手を合わせる。
よかった、お育てにあった、ありがとうございます、と手を合わす。
情けない、はずかしい、人を傷つけている、何べんも何べんも。
わかっていると思っていたが、今、やっと気がついた。
しかし、またやってしまうだろうなぁ。

娑婆も浄土もみなひとつ。十方微塵世界もわしがもの。
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

風と空気はふたつなれど、ひとつの空気、ひとつの風で
 わしと阿弥陀はふたつあれど
 ひとつお慈悲のなむあみだぶつ

久遠とてべち(別)にあるじやない
 この世界くをん(久遠)のせかい
 いちねんぼうき(一念発起)もここにある
 なむあみだぶつ
 浅原才一さんは、このように述べられました。彼の目から見たら、娑婆も浄土もひとつに見えたのです。「 二つに分かれる前の世界」に住んでいた人たちが、確かにいたのでありました。

    仏暦二五五二年 十二月

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