私たちはどこから来たのか

 仏の子

 先日、ある家の法要で、小学校一年生の双子の子どもさんが正信偈を一緒に読み、法話を一心に聞こうとしている姿に出会いました。法話は、子ども向けに話したのですが簡単な話ではありませんでした。でも、目を見開いて真直ぐにこちらを見つめています。
 その時、この子たちは何処から来たのだろうかという問いが浮かびました。そして、この子たちは浄土から来ている。そう確信できたのです。


私たちは何処から来たのでしょうか。
お母さんのおなかの中から。
それよりももっと前は?
おばあちゃんかな。
それよりももっと前は?
・・・
私たちは極楽浄土から来たのですよ。
おばあちゃんも極楽浄土にいます。

極楽浄土はどんなところかと言うと、とてもすばらしい所です。
地獄や餓鬼や畜生の苦しみがありません。
むさぼる心、いかりの心、おろかな心も起きません。
差別もありません。いじめも貧困も争いもありません。
何の苦労もなく楽しい所です。

でも、あまりにもすばらしい世界だけれど、
ここにいると、人間として成長しません。
だらけてしまうからです。
怠けてしまうからです。

そこで、仏様は(この仏様を阿弥陀と云います。)
私たちを娑婆世界に送り出し、
苦労をつんで修行をしておいでと言われたのです。
そして、人として成長して、また還っておいでと言われたのです。

かわいい子には旅をさせろというお心でしょうか。
つらい旅をさせ、世の中の様々な出来事に触れさせて、
教育しようとされたのでしょうか。
この娑婆世界には辛いこと、悲しいこと、嫌なことがいっぱいあります。
でも、それを体験することで、人間として成長します。

涙をいっぱい流してごらん。
あなたは悲しみの涙を流すために、この世界にやってきた。
この涙を流すことによって、あなたの目は美しくなり、心は優しくなる。
そして、辛いことに堪える心も育つのですよ。

私たちは浄土から来ているのですから、この世は仮の宿です。
そして、私たちはこの仮の宿である娑婆世界のお客です。
私たちは娑婆世界の過客なのです。
だから、この子たちを「 私の子」と思ってはいけません。
この子たちは仏さまの子です。
仏様からあずかった、大切な仏の子であります。

となりにいる妻や夫も、それぞれに浄土からのお客です。
親や兄弟も相客と思えば、宿に泊まるように仲良く暮らして、
後に心を残さずにさらりと辞去せねばなりません。

父母に喚ばれて仮の客に来て
      こころ残さず還る故郷
              沢庵和尚
故郷の浄土に還って、私たちは修行の成果を振り向け、
菩薩にならせていただきます。
妻は浄土から娑婆に来た観音さまです。
夫は浄土から来た勢至菩薩です。

娑婆の世界には楽しみもあります。
嬉しい出会いがあります。
でも、出会いの喜びは、別れの悲しみとなります。
苦しくつらい時、
悲しみに耐えられない時、
仏さまに呼びかけてみてください。

南無阿弥陀仏
と。

  ひろさちや著「 お念仏とは何か」より
   【仏の子と常不軽菩薩
   【仏恩とは何か
   【後生の一大事

    仏暦二五五四年二月

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