凡夫だけどかけがえのない私

ぼくなんか居なくても変わらない


 「 ぼくなんかいなくても変わらない。」そう語った子がいる。
 言葉は短いけれど、「 ぼくなんかいなくても世の中には何の影響も与えない。」「 悲しむ人や困る人なんかいない。」「 だからぼくなんかいないほうがいいんだ。」という言葉(気持ち)も含んでいる。
 そんなことはない。君は必要だ。君は役に立っている。君は大切な人なんだ。一人しかいないかけがえのない人なんだ。こう慰めたとしたら、彼は納得するのだろうか。

 理屈で考えると、この言葉は、「 ぼくなんかいなくても変わらない」=「 ぼくがいないと困るはずだ」=「 私は必要とされている」=「 私を認めてもらいたい」とつながってくる。そういう期待を含んでいる。
 しかし、現実に彼がいなくても学校・社会はそう変わらない。現に彼がいなくなった時にも学校は同じ様に進んでいた。勉強もスポーツも得意ではない彼が、自分の価値を認められないのも理解できる。
 いや、待てよ。そう考えている私自身も同じだ。私自身も職場の役に立っているとは思えないし、私が消えても、職場は同じ様に進んでいく。私が消えても世間はそんなに困らないと感じる。家族だけは困ると思うが、困るような家族がいなかったらいなくても変わらない。
 そう考えると、実は全ての人がそうではないかと思う。私がいなくても世の中には何の影響も与えない。みんなそうなのだ。私たちは何と孤独なんだろう。その孤独を、彼は知ってしまったのだ。
 そう思うと、彼がたまらなく愛おしくなってきた。だから、この問いかけにどう答えたらいいのか。単なる慰みではなく、私も納得できる答えはあるのだろうか。必死で答えを探さなくてはいけないと考えた。

 人の評価で生きている
 ところで、この子は、私たちは、なぜ役に立っているかどうかを問題にしてしまうのか。  それは、人を比べながら見ているせいではないだろうか。世間では、「 必要とされている」=「 役に立つ」と考えられている。役に立つ人間を目指すように要請されている。だからこの人は役に立つ人間、この人は役に立たない人間と比較してしまう。
 一方、認められたいという自己承認の要求は、人間の持っている本能のようなものだ。だから、認められないと苦しみが始まる。
 人の評価を気にし、人の評価に従い、その支配的な「 まなざし」をいつも感じながら生きている苦しみは、この子だけではない。すべての人が同じなのだ。そうやって生きている私たちなのだ。だから私たちの生は「 いとおしい」。「 いとおしい」という以外にない。

 「 ホーム」と「 ハウス」
 そこで、こんなことから話しかけてみた。
A君。「 旅」と「 旅行」の違いはわかる? 旅行は目的があるけれど、旅は目的がない。
じゃあ、君の家出は旅だったの?それとも旅行だったの? 旅かな。でも、結局家へ帰ってきてしまった。
そうだね。その家だが、ホームとハウスはどう違う? ハウスは建物の家で、ホームは家庭かな。
君にはハウスはあるの? ある。
じゃ、ホームは? ない。
とすると、君は「 ホームレス」だね。 そうなるのかな。
もっとも君だけじゃないよね。ハウスはあってもホームのない子はいるよね。
いるいる。〜君なんか。・・・
 ところで「 ぼくなんかいなくても同じだ」という言葉の反対は、「 ぼくがいないと困る」だろ。これは人の評価で決まる。でも、自分を認めるために人から認められる必要はないよ。だって、もし、他人の評価で自分を計っていたらどうなるか。こんなことを書いてきた子がいた。

 いじめは人と比べるところに生まれてくる
「 自分に価値があると思えなかったから、誰かを否定して攻撃することで、自分はまだましだと思いたくなる。」
この子が何をしたのかわかる? そう、彼はひどいいじめをしていたんだ。彼が縛られていたのは、いい成績とかいい高校へ行くとか、人よりもかっこいいというような評価だったんだ。
 その評価に乗っかかると、そうでない自分―成績が人よりも悪い、いい高校に行けない、人よりも美しくない―に気がついた時には自分を否定してしまう。そして、そのむしゃくしゃした気持ちが、より成績の悪い人や弱点のある人に向けての攻撃に変わっていく。わかるかい。地獄だろ。
 そんな他人の評価にのっかかるのではなく自分で自分を認めるんだ。
 人が思っていることは変えようがない。自分が思うことは自分で変えることができる。その時の人の評価は変えられないけれど、自分の評価は変えることができる。自分の未来は自分で変えることができるんだ。

 自尊感情
 彼が納得したのかしなかったのか、それはこれからの彼の生き方でわかってくる。しかし、人からの評価で生きるのではなく、自分の評価で生きていくことはこの俗世間では難しい。自分の肯定的な評価のことを自己尊重感(自尊感情)という。これがないと、迫害的ないじめをしたり、ホームレスの方を襲撃し、殺すこともあるという(北村年子さんより)。
 では、自尊感情はどうしたら育つのか。子どもをほめれば良いと思う。ところが、ほめても自尊感情が育たないほめ方がある。
 「 良い子だね。」 「 上手だね。」 「 よく頑張ったね。」
 これは、人と比べてほめている。全て比較で評価している言葉だ。「 良い子だね」の裏に「 悪い子だね」。「 上手だね」の裏に「 下手だね」。「 よく頑張ったね」の裏に「 怠けているね」が見え隠れする。だから叱られもする。
 そうすると、子どもは、自分の価値は人の評価で決まると思い、もっとも評価の高いお金や地位や権力にこだわるようになる。その目でしか人を見えなくなるし、自分自身をもそう見てしまう。
 オレは成績がよい。有名校に入った。良い地位についている。収入が多い。という優越感は、それが達成されなくなると、自己否定に簡単に転化する。自己否定は他者をも否定する。だから、人と自分を比べる目で見ることはやめよう。

 欠点や弱点、短所もある「 不完全な私(自己)」をどれだけあるがままに受け入れ許せるのか。そして、誰が何と言おうが、自分には価値がある。テストの点数や地位や収入や学歴による優越感は砂上の自尊心で、それらを失くしても、あっても、今ここにいる自分をあるがままにいつくしみ大切に思えること。
 だから、誰もがかけがえのない存在であり、自分以外に価値のある人もない人もいない。全ての人が等しく尊いいのちなのだと感じることができるようになること。

 ある時、A君が、先生が今まで出会った生徒の中で一番心に残っている人って誰ですか?と聞いてきた。そんなのA君に決まっているじゃないかと迷わず口に出た。いろいろな子がいたけれど、君ぐらい・・・

 「 不完全であり、かけがえのない自分」を言いかえると、「 凡夫であるけれど、かけがえのない私」となる。自分が凡夫であることを深く自覚し、生まれてきてよかった、今ここに生きていていいと思えることこそ、仏の願いである。煩悩を持った私であるけれど、仏は私を大切に思っていてくださっている。そして、私たちは仏の目で自分自身を深く見ていく。

  北村年子著【「 ホームレス」襲撃事件と子どもたち】より

    仏暦二五五三年九月

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