仏教と科学

 仏教は物語である

一、仏教の話は信じられない

 息子が友だちに仏教のことを話したら、
「 葬儀や法事は大事だと思うけど、仏がいることや地獄や極楽などの仏教の話は信じられないんだよな。」
と言われたという。
「 仏教を信じることって、仏がいることとか、地獄があるとかいうことを信じることやと思っていたから、どう答えたらいいのか困ってしまった。」
そう言いながら、
「 実は俺も信じられん所がある。」
と語りだした。

 いろいろ聞いていくうちに、仏教が現代の若い人たちに受け入れられにくい原因が少しわかったような気がした。

 学校では真偽を扱う。芸能教科はそうではないはずだが、なんせテスト(試験)は全て○×であるから影響は大きい。
 だから、「 これは信じられるか」ということは、「 合っている(正しい)か間違っているか」という判断で教えられていることになる。合っている(正しい)ことが信じられることであり、それが科学的だと思ってしまう。つまり、絶対的で客観的なモノやコトがあり、それは真偽や正否を示すことができるものと思ってしまう。
 でも、真偽を実証的に確かめられるのはほんの一部のことだけであり、私たちの「 世界」のほとんどのことは実証的に確かめることができない。
 ところが、学校では「 科学を取り入れている」ので、それが全てであるように考える。つまり○×的な二元的思考や、合っている=正しい=信じられるという短絡的な思考を生み出してしまう。
 しかし、一方ではどこかにそういった押しつけに対する反発もある。占いや心霊現象がはやるのは、単純に正否を決めることができない世間の複雑さをどこかでわかっているからだろう。

 私には、この科学(実証主義)とテストによる○×思考(正解主義)が仏教をわかりにくいものとしている原因の一つと思われる。地獄や浄土があることは実証的には証明できないし、仏や神が存在することを証明することはできない。五劫を何億年だとすると人類の歴史と矛盾する。そんなの信じられないとなってしまう。
 では、「 仏教の話」とは何だろうか。そもそも仏教(宗教)で語られることは、ほとんどが物語なのだ。

二、物語はフィクション

 ある時、小学生に新美南吉の「 ごんぎつね」を話していた。すると、それは嘘だと言って受けつけない子がいた。キツネが人間の言葉で話をするはずがない。だからこの話は嘘だ。と言うわけである。これには困った。
 物語(フィクション)は嘘だけれど、そこに書かれていることは、現実をより鋭く抉り出し、「 事実」ではないけれど「 真実」を表していると説明をした。(具体的にはTVのドラマやアニメを使って説明したが難しかった。)
 物語は事実を扱っているわけではないけれど、そこに現れるエピソードは、私たちの様々な心の内を象徴的に示し、意識させてくれる。(こちらを真実と言ったわけだ。)

 そうすると、物語(小説)と仏教はよく似た所がある。物語は私たちのありようを示している。その物語の象徴していることが、私たちの生活に意味を与えより豊かにしていく。仏教も同じで、そこで語られる物語やエピソードは私たちの現実を象徴的に示している「 たとえ」なのだ。

 「 地獄や閻魔様の話なんか信じられんと思っていたけど、あれは譬えやったんか。やっとわかった。」と息子がスッキリした顔で語っていた。

三、科学主義(実証主義)の影響

 往生論註に「 器世間」という言葉が出てくる。私たちが入る器=世界ということなのだが、私はこれは自然界のことだと思っていた(辞書には山河大地のことと書いてある)。そう思い込んだのは、今まで学んできた(科学)教育の影響からだ。しかし、よく考えてみると、器は衆生(私たち一人ひとり)を入れるものだから、自然環境だけではない。
 私たちは自然環境の中に生きているだけではない。それはほんの一部であり、私たちは現代日本という社会環境の中に生きている。「 衆生の受用する所なるが故に名づけて器となす」から環境であり、私たちが入っている場所である。それを「 自然環境」だと言ってしまうところに科学思想の影響を認めるのはいきすぎだろうか。

 曇鸞さんは器世間を清浄にし、衆生世間を清浄にするところが浄土であると言われた。
「 浄土は清浄な衆生が用いる国土であるから器という。清らかな食べ物を清らかでない器に盛ると食べ物(衆生)も清らかでなくなる。清らかでない食べ物を清らかな器に盛ると器も清らかでなくなる。」(往生論註)
 世間と書いてあるので器世間=山河大地で衆生世間=社会と思ってしまうが、これを見ると器=空間(器・働き)で衆生=空間を構成している要素(菩薩)と考えた方がわかりやすい。さらに、器世間=社会環境 衆生世間=穢土 如来世間=浄土 と考えれば、もっとイメージしやすいだろう。
 私たちは、環境汚染と言うとすぐに(自然環境を汚す)公害と考えてしまう傾向がある。しかし、社会環境だってシステムや法律や政策によって汚染されてしまう。むしろ現代ではこちらの方が大きいはずだが、あまり意識されていない。
 曇鸞さんは、環境も人々もどちらも清らかでないと浄土にはならないと言われたが、まさしくそれは現代にこそより当てはまる。「 五濁悪世」は環境(社会=用)と衆生(個人=体)の両方を意識するべき言葉なのだ。

 「 器世間を自然界」と考えてしまう「 科学教育」の影響の大きさを強調するためにこの例を取り上げてきたが、この影響は仏教の基本原理である「 諸行無常」にも当てはまる。

 私たちは「 諸行無常」に自然も含めてしまう。でも、これは近代の科学主義の影響といって良い。
 例えば、陽子も崩壊するとか、気候変動などを諸行無常ととらえてしまう。でも、物が落ちることや惑星の運行は変化しない。そもそも物理法則が無常だったら科学は成り立たない。
 このことは、昔の人も自覚していたようで、「 年々歳々花相似たり」は諸行無常ではない。花は毎年同じように咲くから繰り返す現象であり、無常ではない。それに対して、私たちが、「 歳々年々人同じからず」なのである。
 つまり、仏教でいう「 諸行」は、あくまで社会や人間世界のことなのである。老いてしまい、いつか死ななければならない人間の存在、すぐに変わってしまう人間の心や社会の世論を無常と表わしたのである。

四、科学は万能ではない

 私たちがつい科学を万能のように思ってしまうのは、現代科学の生産物と近代の実証主義の影響であるが、私自身のなかにも、「 科学は万能である」という思い込みとそれによる「 進歩史観」が抜きがたく染み付いている。確かに科学技術は進歩したが、それが人間に「 幸せ」をもたらしてくれたとはいえない。

 最初に取り上げた若い人たちの反応を見ると、モノゴトの真偽だけを扱うようになった時に、モノゴトの意味するコトが軽く扱われていく傾向が多くなることは予想できる。そのコトがモノゴトを正しいか正しくないかという二面だけでとらえてしまい、モノゴトの深い意味をとらえられなくなっているのではないか。幸せや価値は正否ではなく意味の方に存在する。

 私も学校で科学を教えてきた者として、科学の扱う範囲と、芸術や文学、宗教の扱う範囲の区別を明確にしながら語ってきたのかどうかを深く反省しなければならない。
 同様に、仏教における誤解の原因は「 科学教育」のせいだけではない。仏教の側(私たち)も、「 人生の物語」を「 おとぎ話」にしてしまっていないだろうか。

五、宗教と科学の定義

 哲学者の竹田青嗣さんが、宗教と科学(哲学)の面白い定義をしていた。(中学生からの哲学「 超」入門)
『 宗教は「 真理」を求め合うゲームであり、科学(哲学)は「 普遍性」を求めるゲームである。』
『 宗教は「 物語」で世界を説明する。科学は「 概念」と「 原理」を使って世界を説明する。』
 これは、わかりやすい喩えだ。面白いのは、科学(哲学)は真理を求めるのではないというところだが、宗教だって信じていることと真理とは異なっている。そういう意味では、真理を求めるということがどういうことか、真理などというものは無いということを含めて考える必要があると思う。

 科学も説明をするときには「 たとえ」を使う。「 たとえ」というのはある意味では物語といってもよい。科学も大きな体系的な物語といっても良いのではないだろうか。逆に概念(仏と浄土)と原理(四十八願)を使って世界を説明し解き明かすこともある。
 そうすると、右の定義の「 宗教」と「 科学(哲学)」を入れ替えてみたくなる。入れ替えた定義も、私にとっては意味がある定義となってしまう。
 人生という物語からどんな意味を見い出すことができるのか。宗教も哲学も科学も同じように思えてしまうのである。

    仏暦二五五五年六月

   目次へもどる