他力と自力

   五念門と利他力のこと

一、仏力

数年前、介護の講演で、私たちが生かされているということを、自力と他力と仏力で示された方がいた。
図式化すると、生かされている=自力+他力+仏力 である。
もちろん浄土真宗の方ではない。

自力とは自分の力であり、他力とは他人の力である。仏力はそれ以外のすべての力だ。
人様のおかげということをよく聞くが、仏様のおかげとはあまり聞かなくなった。一方、自分のおかげが最近の流行である。しかし、そうではなく、三つとも大事だと言われたのだ。

自力という言葉には自分の努力という意味があるから、努力が強調される時代には自力も強調される。でも、介護の世界は人の力をあてにしないと不可能である。それを他力と表現されたのだ。

このとらえ方はわかりやすいが、浄土真宗では他力は人の力ではなく仏の力(願力)ととらえる。
親鸞さんは「 他力といふは如来の本願力なり。」と言われた。
他力=仏力( 本願力)ということだが、それはなぜなのだろうか。

二、自利と利他

「 二利双行にご精励の御事と拝察申し上げます。」
と、手紙に書き出すことがある。
この二利とは、自利利他であり、自利行と利他行を合わせるから双行という。
そもそも大乗仏教の行には必ず自利と利他を伴う。
回向という言葉を使うと、三種類の廻向がある。
「 回事向理」
「 回因向果」
「 回自向他」
この最後の回向が「 自らを回して他に向ける」という利他行をさす。

この場合、自利と利他の主語は私である。
「 私が自分のために」と「 私が他人のために」と普通は考える。
しかし、自利を「 自分の利益」と考えると、「 他人の利益」は他利の方が対称的で良いのではないか。

それに注目したのが曇鸞大師である。
「 他利と利他と談ずるに左右有り。」
と往生論註には、「 他利」でなく「 利他」とする理由が述べられている。

利他は「 他を利する」。他利は「 他が利する」と読める。
つまり、曇鸞大師は、利を動詞としてとらえ、利他は自利他。他利は他利自の自が省略されていると考えられた。
他利自は、「 他が自分を利する」だが、この他とは他人ではなく仏である。仏が私を利すという意味になる。
自利他の方は、「 自分が他人を利する」となる。
この自分とは誰であろうか。

曇鸞大師は、
もし、仏よりしていわば、よろしく利他というべし。 衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。 今まさに仏力を談ぜんとす、このゆえに利他をもってこれをいふ。
と、仏が主語であったことを述べられる。
( 自)利他は「 自( 仏)が他( 汝)を利する」。他利( 自)は「 自( 私)を他( 仏)が利する」だが、 今は、仏の側から見ているのだから、仏である私が他を利するという利他を使うのだと。

仏が私を利するというのは、衆生からの見方である。
仏法には私( 我)はない。あくまで、仏が主体なのである。
汝と呼びかけられている私がいるだけなのだ。
まさに知るべし、この意なり。
およそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の起すところの諸行は、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑに
なにをもつてこれをいはば、もし仏力にあらずは、四十八願すなはちこれいたづらに設けたまへらん。
そうすれば、自利も同じではないか。自利も仏が主語ではないか。私たちの行もすべて仏の願(力)いに依っているからではないか。

自己を中心に考えてしまう私たちは、浄土へ往くための五念門行は私の自利の行であると考えてしまう。
でも、親鸞さんはこの曇鸞大師のこの言葉と出会い、五念門行が法蔵菩薩ご自身の行であったと思い至られた。
そもそも自利を完成することで利他することができるのであるが、私たちには利他はおろか自利すら到底できる行いではない。
だから、法蔵菩薩が(兆歳永劫の間)五念門の修行をされ、それが成就された結果、五果門として私たちに働いている(回向されている)と考えるしかないと。
つまり、法蔵菩薩はご自身の長い長い修行の成果を、名号一つに込めて私たちに回向された― 名号に法蔵菩薩の兆載永劫のご修行がすべて込められていると。
それは、法蔵菩薩が自利と利他の功徳を成就したこと(五功徳門)、これを入出の門というと天親菩薩が示されたからである。

三、自力と他力

ところで、曇鸞さんは仏力を使っている。なのになぜ他力という言葉を使われたのだろうか。
それは自力と対比させるためだろう。
自力とは、はからうこと。我が身をたのみ、我が心をたのむ、我が力をはげみ、我が様々の善根を頼む人のこと。
曇鸞さんは、自力をたのむ人は決して浄土へ往けないことを示されたのだ。(自力を否定されたのではない。)

もう一つ疑問が湧いてくる。 それは、自利と利他、五念門と五功徳門、入出の二門、往相廻向と還相廻向の主語(と目的語)はだれなのか。 同じような対比なので混乱してくる。
ここで、「入出二門偈」(現代語訳)を読んでみよう。五念門と五功徳門が見事に統一されている。
 法蔵菩薩は、 五念門(行)によって入出の功徳をそなえ、自利利他の行を成就された。 はかり知ることのできない長い時をかけて、五功徳門(五果門=入出二門=名号)を成就されたのである。
五念門(行)とは何かというと、礼拝と讃嘆と作願と観察と回向である。
(一)(法蔵菩薩は)どのように礼拝する(された)のかというと、身業で礼拝されたのである。 正しい智慧をそなえた阿弥陀仏は、巧みな手だてによって、すべての人々に安楽浄土へ生れようという心をおこさせようとなさるからである。
これを入の第一門という。またこれを近門に入るというのである。
(二)(法蔵菩薩は)どのように讃嘆する(された)のかというと、口業で(仏を)ほめたたえられたのである
名号のいわれの通りに(私たちに)仏の名号を称えさせ、如来の光明という智慧の相によって、如実に行を修めさせようとなさるからである。 これは無礙光如来が選び取ってくださった本願の行だからである。
これを入の第二門という。すなわち大会衆門に入ることを得(獲)るのである。( 正定聚の位に住す)
(三)(法蔵菩薩は)どのように作願する(された)のかというと、意業で常に願われたのである
(私たちに)一心にただ念仏して浄土に生れようと願わせるのである。 蓮華蔵世界に生れて、思いを止め心を静める行を如実に修めさせようとなさるのである。
これを入の第三門という。またこれを宅門に入るというのである。
(四)(法蔵菩薩は)どのように観察する(された)のかというと、智慧の眼によって観察なさったのである
(私たちに)正しい思いで浄土を観じて、ありのままにそのすがたを想い描く行を如実に修めさせようとなさるからである。 浄土に生れたなら、ただちに法を味わうさまざまな楽しみを受けさせてくださるのである。
これを入の第四門という。またこれを屋門に入るというのである。( 涅槃の果を得る)
法蔵菩薩の修行が成就するということについて、この四種は(法蔵菩薩が私たちの)入の功徳を成就なさったのであり、(私たちの)自利の行を成就なさったと知るがよい。
(五)第五は出の功徳を成就なさったのである。
法蔵菩薩の出の第五門である回向は、(法蔵菩薩が)どのように回向する(された)のかというと、功徳を与えようと願われたのである。 法蔵菩薩は、苦しみ悩むすべてのものを捨てることができず、回向を本として大いなる慈悲の心を成就なさったのであるから、その功徳をお与えくださるのである。 浄土に生れたものは、そのまま速やかに自利の智慧利他の慈悲とを成就し、煩悩に満ちた迷いの世界に還ってきて、 さまざまなすがたを現し、神通力をそなえ、思いのままに教え導く位に至り、すべてのものを救うはたらきを与えられるのである。
これを出の第五門という。園林遊戯地門に入るのである。( 普賢の徳に遵う)
この本願力の回向によって、(私たちの)利他の行を成就なさったと知るがよい。
無礙光仏は因位のときに、このような広大な誓いをおこし、本願をおたてになった。
法蔵菩薩はすでに智慧心(自利)を成就し、方便心・無障心(利他)を成就し、妙楽勝真心(自利利他円満の真実心)を成就して、 速やかにこの上ないさとりを得られたのである。
自利と利他の功徳を成就すること、これを入出の門と、天親菩薩はいわれたのである。

【二】曇鸞大師は、天親菩薩の浄土論を注釈なさった。
本願力が成就したことを、五念門という
仏の方からいうなら、他すなわち衆生を利益するのであるから、利他というのがよい。 衆生の方からいうなら、他すなわち仏が利益するのであるから、他利というのがよい。よく知るがよい。いまは仏のはたらきを語ろうとするのである。
・・・
すなわち入出の二門を他力と、曇鸞大師は言われたのである。
この文の【二】と出会ったがゆえに、親鸞さんは五念門をこの現代語訳のように読み替えられた。【元の往生論註へ
それは(浄土への)入出の二門を自利と利他でまとめ、それは法性法身からの回向であるがゆえに法蔵菩薩の自利利他の行となる。 つまり、法蔵菩薩は阿弥陀如来の還相ということ。

ところで、「他力」という言葉は誤解を生みやすい。
そこで、梯實圓師は他力を「利他力」と示され、だから本願力であると言われた。 確かに「仏の利他の力」の方がわかりやすい。 本願力廻向を利他力ととらえると、往相と還相も全て他力ということがうなずける。
そして、還相するのは私たち凡夫であるが、それは往生後の相である。
この娑婆では、大切な人の代わりになってやりたいと願っても代わることはできない。 浄土ではそういうはたらきが自然に具わってくるというのは生きる希望を与えてくれる。

四、他力の念仏

隆寛律師の「自力他力事」の中に、自力の念仏という言葉が出てくる。
悪事をせず、悪口を言わず、道理に外れたことを思わないで念仏するものは、自分の念仏の力によってすべての罪を除いて極楽へ必ず往生するという自力の心を持つ。
それは結構なことではあるけれど、そんな人はめったにいない。そして何よりも弥陀の本願を認めないという罪がある。この自力の念仏では、極楽の辺地にしか往生できない。

他力の念仏とは、自分自身が愚かで恥ずかしい身であるから、簡単にはこの娑婆世界を離れることができない。毎日罪を重ねるばかりだし、妄念は次から次へと起こってくる。この上はただ、南無阿弥陀仏と念仏する他はない。自分の力では極楽に往生することはできないと思って念仏することをいう。

そして、他力の念仏の譬として、
「例えば、腰が曲がり、足が弱って自分の力では立つこともできない。まして遠くへ行くことは思いにもよらない。でも、身をまかせた人がいとおしと思って、力の強い人を引き連れ、輿を担いで迎えに来て、そっと乗せて帰るべき十里二十里の道も軽々と行き、野山も過ぎてゆくように、私たちが極楽へ生まれたいと思い立つことができるのは、腰も曲がり足も弱った人と同じように罪深く煩悩も多い人にも優れている方法だからである。」と出ている。

これを読んでふと思ったのが昔の葬儀である。
輿を作りきらびやかに飾り、それを担いで焼き場まで行く。
それは、このことを表現したのだと思う。
生涯、御輿に乗るというようなことのなかった人が、四人の縁者に担がれて、蓮や花に飾られた行列と一緒に焼き場まで進むのは、弥陀の迎えを表現したものだったのだろう。
そして、この譬は介護のありさまをそのまま示している。

    仏暦二五五六年(平成二五年)五月
    仏歴二五六〇年(平成二九年)十月に再編集

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