毛坊主と妙好人 その一

    ― 道場と毛坊主 ―

一、道場と毛坊主

 「 おじさんはお坊さんなのにどうして坊主じゃないの」と女の子に問われたことがある。坊主じゃないの?とは、正確には「 坊主頭じゃないの?」ということである。
 今日は、この坊主頭でないわけを探りながら、現在の寺院のあり方を考えてみようと思う。

 私のような有髪で寺院と他の職を兼業している坊主のことを「 毛坊主」という。江戸時代における飛騨の毛坊主について、百井塘雨の「 笈埃(きゅうあい)随筆」には、次のように述べられている。

「 当国に毛坊主とて俗人でありながら、村に死亡の者あれば、導師となりて弔ふなり。是を毛坊主と称す。訳知らぬ者は、常の百姓より一階劣りて縁組などせずといへるは、僻事(ひがごと)なり。此者ども、何れの村にても筋目ある長(をさ)百姓にして田畑の高を持ち、俗人とはいへども出家の役を勤むる身なれば、予め学問もし、経文をも読み、形状・物体・筆算までも備わざれは人も帰伏せず勤まり難し。」

 当山は江戸時代は道場であった。道場とは、六字名号を掲げ、それを自家の一室の床の間にかけ、香炉・燭台・花瓶などを置き、礼拝の施設を整えただけのもの。村人たちは、村長(むらおさ)を先達として正信偈をとなえ法話を聞く。この導師を毛坊主と称した。
 毛坊主は普段は百姓をしながら、村に葬儀や法事があれば僧侶に代わって導師をやっていた。実は、この状況は数百年後の現在も変わらない。私は百姓(もろもろの仕事)をしながらの毛坊主なのだ。ただ、本山で得度をし、住職の資格を得ているのが当時とは違うくらい。
 江戸時代は本末制度の上で、本寺を通じて六字名号や三具足などをお金を出して順番に揃えていった。本寺は本山とつながっている。もちろん檀家制度の元で役場のような役割もしている。

「 これらが農村の真宗寺院の前諸形態であった。このうち道場は近世中期、高山照蓮寺末として寺号を付することになったが、農家と差異はなかったようである。…毛坊主のゆえんは彼らが有髪であったところからきているが、無寺無僧の村方で死者葬送の必要からこうした者が要求されてきたのである。」
    〔参考文献〕柳田国男「 毛坊主考」『定本柳田國男集』9 筑摩書房


二、道場から長善寺へ

 宝暦年間に小さな道場として成立した当山は、道場・毛坊主として道場を運営していたが、その後、明治五年頃に本堂を建立し寺院となった、築百年程の小さな寺である。
 これは、明治4年に時の政府が寺院の管轄・管理を改正して定めていることからきているのかも知れない。(いわゆる廃仏毀釈運動の一環である。)当時少ない檀家数で、小さいとはいえあれだけの本堂を建築するためには、檀家を初めとしてかなりの苦労があったことだろう。
 だから、小さな山村で檀家数とて少ない中では、むしろ百姓としての方が重きを成していた。当山の先祖は、江戸時代には正ヶ洞村の庄屋・長百姓として、用水の建設や田畑の開墾に苦労をした。川原に田んぼを作るために、過労で息子が亡くなったこともあった。村に医者をよぶ為に子どもに医者の修行をさせたこともある。(これについては【ふるさとの昔話:毛坊主】を参照)
 現在寺院の形式をとっているとはいえ、経営状況は当時とそんなに変らない。では、なぜ道場を作ったのだろうか。

 ここで、道場の歴史を振り返ってみよう。真宗の布教は蓮如上人によって、惣村の指導体制と門徒制とが結合して広がっていった。その場合、寺院の変遷の流れを大雑把に書けば、次のようになる。

 荘園制→惣村→門徒制(個人への経済的依存=講)惣道場→本末制→寺請け・檀家制(宗門改め・過去帳)
 中世から近世への大きな流れである。

○本末制度と檀家制・・・収奪の構造と上昇の構造
 蓮如上人以来、山村での布教は庄屋や長百姓を中心になされたので、寺院があったわけではなく、惣道場といって普通の農家に、名号を床の間に掲げただけの部屋に村人たちが集まり、長百姓を導師として正信偈や法話をしたのもと伝えられている。
 これは惣村の自治活動と結びつき、精神的なつながりや拠り所として真宗の教えが広まっていったものと思われる。
 ところが、近世になると、本末制度の元で名号だけでなく、伝絵や三具足などをとリそろえるようになっていった。この道具はかなり高額であったらしい。それにもかかわらず道場の形態をとり高額な道具を取り揃えようとしたのか。
 色々考えられるが、葬式すら出せない生活から、葬式を出してもらえる生活へというような生活の改善要求もあったと思われる。もちろん檀家の数を増やして本寺と肩を並べる寺院となる道もあったが、それはほんの一部であった。


三、山村における在家仏教の担い手としての真宗

 念仏の道場が、村落にどのような精神的な影響を与えたのかを調べてみたら注目すべきことが見つかった。(高田満氏【人格の完成者と社会の形成者の一典型としての「 妙好人」】より)
 江戸時代にたびたび訪れる飢饉。生産性のあがらない農業。そういった問題から、たびたび間引きと称される嬰児の殺害が行われた。

○間引き
 ところが、経済発展がないのに人口が増加している所がある。苦しくても人口が増えていた理由は、間引きをしなかったからだ。間引きをしなかったのは信仰による。
「 親は子どもたちを如来の預かりものと心得て育てるべきである。」
という念仏の教えを、人を人として大切に扱う心を、山村の人たちが受け入れたのは、念仏には人が人として尊重されるという平等の思想があったからだ。
 でも、彼らは間引きをしなかったが、生活が楽になったわけではなかった。そこで食扶持(くいぶち)を減らすために彼らがとった手段は、冬季になると「 寺参り」と称して、物乞いの旅に出ることであった。

○寺参り
 越前の山村では、秋までの農繁期が終わると、母親たち数名が交代で、善光寺参りと称して豊かそうな村や町を巡り、食べ物を恵んで貰いながら旅をするのである。もちろん農繁期になれば働き手として村に戻る。年貢で取られた残りの食料で冬を越すためには人数が多すぎる。食い扶持を減らすためにとった行動であった。
 このような苦労をしながらも念仏の教えは、山村の人々の精神的なよりどころとして定着していった。

○山村の生活
 山村の生活を少しでも良くする努力は明治になっても、昭和になっても少しも変らなかった。生産性を上げる・土木工事による水引き・医療・葬祭…いずれもなくてはならないものだった。そして、精神的なものも。村落をまとめるには何か精神的共同体をなしていくために精神的な支柱が必要だった。それを担ったのが念仏の教えであろう。

○在家仏教の担い手としての毛坊主
 この毛坊主は、真宗の本道であると考えられる。宗祖は愚禿親鸞と称され、寺院を持たないで布教に励まれた。その意味では、百姓をしながらの毛坊主は在家仏教と寺院仏教を融合した形と言ってもいいだろう。それは、現在組のほとんどの寺院のおかれている立場とあい通じている。経済的な困難さは昔からあったのだ。
 もちろん檀家制が、布教の努力を近世の仏教から奪い取ったことはゆがめないが、毛坊主を中心とした小さな山村の寺院が存続してきたのは、真宗の本質である在家仏教の担い手として少なからぬ力を発揮していたからではないだろうか。
 それは、この道から妙好人とよばれる人たちが出現したことによって明らかになってくる。そのことについては次回に書きたい。

 これは入院前から書き始め、手術前にほぼ完成したが、手術後もいくつか書き加えた。

仏暦二五五二年 八月

参考サイト
 千葉乗隆【 浄土真宗と北陸門徒
 高田満【 人格の完成者と社会の形成者の一典型としての「 妙好人」

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