毛坊主

                      上村彰隆

一、岐阜県の毛坊主

 岐阜県の飛騨地方に毛坊と呼ばれる俗聖(ぞくひじり)がある。主として浄土真宗の農村地帯に多く見られる。ふだんは農業を営み、髪の毛を無造作にのばし、妻子を養いながら僧の役をなした。住居の廊下に釣鐘(つりがね)をかけ、住居の広間に仏壇を飾って仏事を営み、里に死去ある時は導師となって葬儀を司り、追善・年忌の供養も同様に役をなした。
 その住居は道場と称えた。その役の多くは村方の長百姓や庄屋の分家などが当たり、俗人ながらも出家の役をつとめるのであるから、読み書き珠算(そろばん)などの学問もし、経典を読み、葬礼、斎非時には、麻裃(あさかみしも)を着して導師の勤めをした。一般の僧と同じ様に野郎頭で亡者の取置きをする。
 飛騨地方では明治中期までお寺が無く、俗家と全く等しい田家寺(たいじ)が見られた。これは農村の真宗寺院の前形式をなしたものである。
 飛騨風土記を見ると、殆どの村ごとに道場があり毛坊主がいて、これが俗名を称して道場甚助などしるしているもので、すでに僧名を名乗っているもの、僧名とともに寺院を有しているものなど、種々な発達段階がうかがわれる。
笈埃(きゅうあい)随筆には門の構え寺院にかわることなしと記している。その座敷は一反以下・五畝(せ)・六畝・中には一畝そこそこの小規模なものもあり、一般農家と殆ど差異がなかった。
 明治五年道場廃止令によって民家に編入されたものもあるが、真宗寺院として復活したものが殆どである。いずれも蓮如以降の永禄・文明それ以降の創建と伝えられている。

 岐阜県飛騨地方以外にも滋賀県の伊香郡・京都の丹波地方・奈良県の吉野山地など、各地に毛坊主と呼ばれる俗聖があり、主として浄土真宗の農村地帯に多く見られる。滋賀県伊香郡では、彼等を(毛ボン)と呼び、広島県・和歌山県にも道場があった。
 安芸門徒では道場主を"手次(てつぎ)坊主”と呼んでいた。毛坊主の称は一種の貶称(へんしょう)で、その有髪・妻帯の俗聖の特徴をとらえたものであるが、その権威は遠く親鸞の念仏道場主義・妻帯・俗聖に起源している。

 特に民間布教のために程々の説教や実践が見られ革新的な性格が強く見られる。ことに小規模な農村の無寺無僧の社会に、かかる毛坊主と道場の形式が導入され、それが民衆教化に大きな役割を果たして来た事実は浄土真宗の一つの特色であり、農村浸潤の基線をなしたものである。
 蓮如上人は各地に爆発的に増えていく道場に対応して日々名号を書き続けられた。その一方で各集落の拠点となる道場や寺院には絵像の本尊を授けられた。いずれの場合も方便法身の尊像と裏書があり、また下付を願い出た道場主や蓮如上人、その子の実如上人の署名と花押がある。
 本村にも各道場夫々に、依頼に従って六字・九字・十字の名号が下付されたと思われるが、現存しているのは二・三ケ寺のみである。在家には仏壇に奉納できる六字名号が数点確認でき、長百姓や庄屋などが下付を願い出たものと推察できる。


二、高鷲の山村の冠婚葬祭

 さて、この飛騨に隣接する奥美濃の郡上郡鷲見郷、明方筋もこの範疇に入り、各集落毎に道場と毛坊主の形式をなしていた。夫々の集落には庄屋や名主が毛坊主の役目をなし、自宅を道場と称して、一族や近隣の死去には導師や仏事を取り計らっていた。一集落でもニ系統あれば、夫々に毛坊主と道場の存在があり、互いに優劣を競った姿が見られる。
 長百姓、或いは庄屋は、集落における指導的立場にある存在なので、毛坊主としての役目の他に、一般的な農民生活の指導もしていかねばならなかった。
 当時の衣食住の生活基本は、総て自家で賄われなければならなかった。一旦有事の際は、集落挙ってお手伝い、助け合い、催合(もやい)等々、昭和の中頃まで堅実に守られていた。  そこで、生活の基本について考えてみると、衣は栽培した綿・麻・生糸の綿布を気候に合わせて夏・冬の着衣・作業用のタツケ等々、限られた枚数しか持っていなかった。
 甚だしきは亡者の最後に着ていた着衣を野辺用のサラシ、木綿に着替えさせた後、洗って相応の家族に着用させた。(洗濯した衣は、天日に直接干さず、日陰で裏返しに干したと伝えている。)
 布団は藁スクベ布団で家族が仲間でかぶって寝た。このスクベは草鞋(わらじ)等の防寒用にも用いられた。  家族各自外出用に一張羅と言って特別な時に着る着物を箪笥にしまい込んでいた。紋付は成人の男女が夫々夏冬のものを持っていた。普段着は着のみ着のままで破れれば継足して着用した。
 作業衣は上衣は半纏にタツケで何れも麻で織った強靭なもので年から年中洗っては着用した。兎に角四季夫々に体を覆っていれば事よしとした風習であった。


三、高鷲の衣食住

 食の主食は稗の飯といって、糠稗(稗を搗いたまま)をお釜に入れて白米を少量稗のつなぎに混入して炊き上げた粗雑な主食だった。朝昼小昼(こびる)晩と四餉(しがれい)この稗飯で通した。惣菜は鷲見蕪(かぶら)の漬け物が主で生で食ったり、味噌鍋に投げ入れて煮たり、鉄器で焼いたりして形を変えて食べさせてもらった。(母親の食知恵か)うまかったのは季節に応じて自生する山菜の煮しめ。自家製の野菜料理は高級惣菜、兎に角味噌と漬け物が食の主人公だった。

 家族数にあわせて醸造し漬物部屋に蓄えられた漬物も時を経ず食べられる新漬けから、季節毎に食うひね漬け、一年の長期に合わせて塩加減よろしく主婦は漬け込んだ。
 兎に角台所を預かる主婦は棚元に座し家族に目を配り、その餉(げ)その餉の献立に頭を悩ましたといわれる。  おまけに親父の機嫌を伺い酒代稼ぎにドブを仕込まんならん。隠さんならんし、食うこと親父の面倒を見んならんことやらで、頭を休める暇がなかった。
 こんな有様で家族誰しも毎餉毎餉満腹感なんて味わえる筈がなかった。子どもは野山を駆けずり回り野の草(スイコメ・イタドリ・ツバナ・野苺・クルミ・アケビ・山栗・柿・ツナビ等々を求め目を皿にして足を棒にして捜し求め食のひもじさを満たした。

  ♪山の畑の桑の実を小籠に摘んだはまぼろしか
   川遊び胡桃を千切って大叱られ

 住居は夫々の家庭が財力に応じて構築されていた。屋根は茅葺、又は杉皮の材が利用され風で飛散しない様にその上に川石が並べ置かれていた。部屋は養蚕の為に台所以外は板戸・障子を取り外して、大広間になる様に設計されていた。台所にはユルイ(囲炉裏)があり食事夜なべ等の作業場であり一家団欒の場でもあった。
 庭の入り口には家畜(牛馬)を飼育する厩が造りこまれ、これ等家畜は家族同様に扱われた。裏庭には食の蛋白を補うため養鯉池が造られ鯉の放し飼いが見られた。庭先は「日のり場」といって穀物を天日で干したり乾かしたり作業場として広い場を要しいつでも畑に換地できる様地続きになっていた。
 二階は物置場で養蚕の道具や農具が所狭しと保管されていた。燃料は「春木」といって自家の山のカナ木を春先に筏り、斧(おき)で割って薪にし、家の周りに一年分を春木棚にして積んだ。時には出水による川の流木を拾得したりもした。炬燵・火鉢に使用する木炭は炭焼きを営む農家から冬季四〜五ヶ月分を購入し、軒下に積んで保管し徐々に取り崩した。灯火は松根(アカシ)を石の台で燃やし夜なべ等の灯火とした。
 戸外は月夜を除いて全く暗黒の世界、外出もたっての用件がない限り差し控えた。やむなく外出する時は提灯にローソクを灯して夜道をさぐり探り歩いた。その提灯には家紋が付され、暗闇でも何処の誰かということが判った。暗黒情報不足の世界は災害があると唯戦き滅入らせるばかりであった。そのような世相が昭和初期まで続いた。


四、正ヶ洞村における新田の開墾

 明治末期から大正にかけての農村の悲惨な暮らし苦境は、上に立つ庄屋や長百姓は肌で感じ取り、何とか少しでも打開せねばと思案を重ね、その方策を模索した。
 雪が消え本格的な農作業までには時間があった。それでも里人は田畑の普請に精を出し始め、来る日の為に準備怠りなかった。家族ぐるみでやるので瞬く間に終わらせる。
 この正ヶ洞水源のある所は金山の藤巻の棚も既に水田化されていた。唯残されている手付かずの所は上から中川原・源左川原・大向い川原の三ヶ所である。手の施しようがなく、思案の埒外になっていた。
 覚浄は持ち前の開拓魂で何とかならぬものかと思案した。不可能と思っていた正ヶ洞井水をご先祖が造らせたのじゃ。この三ヵ所「これしきの所」と果敢にも計画立案して立ち上がった。この覚浄は先代儀浄の没後、長善寺の道場を管理し毛坊主の役を果しながら、初代浄林の敷設した正ヶ洞井水の保管、井下の自家の水田を耕作する正ヶ洞きっての長百姓であり、長善寺の主管者でもあった。
 年毎に増殖する村の人口、これ等住民の食生活に苦慮した。既に里人の食生活が如何ともし難いぎりぎりの所まで達していた。耕作地を他村に求めることはできない。見渡して手の付かない所は天王社の向い中川原、その下流川沿いの源左川原、そして川向うの大向い川原しか残っていない。
 どんにもならんと放(ほお)っておく手はない。やって見るんだと計画を立て、夫々の地主喜平治にその計画を話し、川を渡って中川原に水を引く樋の敷設を持ちかけた。覚浄の構想よろしく井水の水は中川原に樋を伝って勢いよく流れて畑を水浸しにした。弥忠治と喜平治は働ける家族を総動員し、急ぎ川畑をそれみよがしに水田にしていった。約三反歩余り、思わん拾い物と眼下を流れる本流を眺めて両家の面々は喝采をあげたと言われる。

 源左川原は砂地ながら既に石を取り除いて畑地になっていたので水田化する為には水路を造って水を誘うこと先決だった。地主の山田作平、上村源左が二人で天王の井水の落ち水をうまく誘うことに成功して、大きな石を取り除き狭いながらも数枚の田圃を形づくった。
 大向い川原は城山沿いの麓は覚浄、甚爾、弥市が請負って造成することとなった。まず川を渡る飛び石を敷かんことにはと、三軒の家族の男共が飛び石並べに挑んだ。見かねた二三の屈強な若者も手伝ってくれたという。少々の水では流されない大きな石、平らな面を上にして足が乗り易いようにと金梃子で動かし順次並べていく。水中での労働、冷たい寒いなどと言っておれず早く完成せねばと二日で完成し、こちらの岸から川向うまで足をぬらさずに渡川することができた。
 城山沿いの川原は甚爾。弥市が自家の畑なる故に造成することとなった。逆巻きに面した所は否応なく覚浄が受け持った。

 平素は静かな奥長良の清流も、一度集中豪雨に見舞われると濁流となって容赦なく山壁を侵食して、大量の砂礫を運ぶ。城山の西方ヒゲト山の間の狭い地帯は幾年もの洪水によって侵食、そして、推積によって出来た川原である。その証にはヒゲト山は山の中腹まで迫った水が岸壁のを洗い出している。こうして一反足らずの沖積大地を形成した。水利は城山から下降する水の手、とても足らないので八百僧川が長良川に合流する地点から山添いに水路を造り誘水することにした。細いもろい水路ながらも目途がついた。大小の石を取り除いて一応砂地の田型を造り、後は地盤据らえである。

 この作業は粘土を田型全面に分厚く敷き詰め導水を漏らさん様に盤を造らねばならない。造田作業でも、一番根気のいる難儀な作業であった。近くに粘土の出土する所が無いので城山を上り、城跡の堀を越し、一00米先の自家の山を掘って運ばねばならない。叺(かます)に入れ気張って背負って起伏の多い山道二00米を土まみれになって来る日も来る日も同じ作業の繰り返し此の作業が完成間近なれど道田作業の根気のいる一番の難関であった。
 山の棚田或いは河川敷きの開田は言葉や文字ではいと簡単に説明できるが機械力も動力もない、道具と言えば唐ヅル、金梃子、鋤簾、鍬、金槌等の幼稚な工作道具、労力に頼るしかなかった。飼育している牛馬、それに人手間が唯一の頼みであった。覚浄はこの造田作業で三男留之助を疲労から来る病の為に失っている。まだ、二十前だった。最後は此の田の造成に苦労した分家する邦之助に贈与するわけであるが、切立の山川へ嫁した姉のおこまが当時の家をあげての命がけの苦労を知っているので、邦之助に懇々と、
「どんなに貧乏をこいても、大向いのあの田圃だけはよもや人手に渡すまい。留の命が掛かっているんじゃぞ。」 と言って聞かせたという。
 僅か三畝足らずの川原田でも、長百姓なる故に他人に率先して計画し将来を見つめて範を垂れなければならなかった。覚浄は先代の儀浄から受け継いだ医の道も多少心得があり、薬草箪笥には折に触れて野山で採集した薬草がどの笥にも詰められていた。


五、山村の念仏道場

 毛坊主とは道場も管理し一族一党の葬式・仏事も営み地域の諸問題、個々の家庭の面倒も見ていかねばならない人徳、見識、人情を兼ね備えておらねばならなかった。此の土台は遠い昔蓮如上人が此の郷にを教化された時代、此の道場を含め夫々の部落に念仏の法を説いて六字或いは九字十字の名号を書き与えられたり、拠点となる道場には阿弥陀如来の絵像を授けられた。
 蓮如上人が
「名号は掛け破れ、聖経は読み破れ」
と言われたというが、大切に保存されたか、大幅の六字名号が二、三散見できる。在家には仏壇に収納できる小幅なものが数点現存しているのみである。
 此の貧しい山界の里に八つの集落ががある。どの集落にも蓮如上人から始まる浄土真宗の寺院が現存している。往昔は皆道場であり、その主は郷里の草分けとして、毛坊主として里人の頂点に立っていた。農耕期には自家の田畑を耕作し泥まみれになって汗を流した。そして、信仰の拠点である道場を経営していた。田圃を佛供田といって家族が心を一つにして管理保全に心掛けた。

 養蚕期には雨が降れば雨に濡れ、蚕が病めば寝ずの番だった。それが、今田圃を耕作すればするほど赤字になると、車社会、農作業も機械、金肥頼る余暇仕事。遊びじゃもなしと古老が洩らした。昔の苛酷な農法を知らない若い者は除草剤を散布して知らん顔、昔一番、二番、三番ケジ(田草)といって田圃を這い回ったもんじゃ。「此の秋は雨か嵐か知らねど、今日のつとめは田草取るなり」と当時の心意気を披露してくれた。お手伝い、結い、もやいで里人みんな助け合ってくらして来た。みんな失われた。
 「このままでいきょうると、後二十年もせりゃ終わりじゃな。」「何がよな。」と問うてみた。「何もかもじゃ。」と村の歴史と共に歩んできた老人は嘆息するばかりであった。
 限界集落は六十五才以上の老人が半数を占める部落を言うそうじゃが、この村の里のいくつかも、その命運にある。あの飛騨では私の知っている限りでも数箇所にのぼる。何もかも誠に意味深長な言葉である。そう言えば、命がけで造った大向いの飛び石も用が無くなったら跡形も無く消え去っている。後二十年後が気に掛かる。


六、ああ飛び石

 飛び石は奥長良の水量の少ないと言って対岸までの川幅広い重要な箇所に敷設されていた。此の村でも数えれば相当数にのぼるが、大規模なものは郡上谷、宮ヶ瀬上流の交通路としての二箇所であった。
 此処大向い飛び石は河川敷の田畑への通行だけでなく、城山の惣山、そして須子に至る重要な作業路としての役目を果たしていた。婦女子でも容易に飛び渡れる様に設置されていた。衣服を濡らさない様、脱落して川へ落ち込まない様設置されていた。

    仏暦二五五二年 七月

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