切干しと縁側の話

縁側の働き

☆: 昔の家には必ず縁側があった。実はこの縁側がとても大事なもんやったんや。
□: そういえば縁側にばあさんたちが座って世間話をしたり、茶を飲んだりしているのを見たことがあるよ。
☆: 縁側に座った隣のばあさんに「 うちの漬け物を食べてみさっせ。」といって食べさせる。「 こりゃうまい。どうやって漬けたか教えてくだれ。」と、縁側から漬け物文化が広がっていった。
□: へーなるほど。縁側は社交の場だったんだね。
☆: 作業場でもあった。縁側には色々なものが干してあったやろ。
□: 切干し(サツマイモの切干し)とか栗とか、ぜんまいとか、渋柿の皮とか…。
☆: 切干しや栗が干してあると、ガキどもが遊びの途中でおやつ代わりにつまむ。自分とこの子どもの分だけでなく、近所の子どもの分まで折り込み済みで余分に作ってあったんじゃ。
□: そういえば盗んで食べたという罪悪感なんか無かったな。
☆: まさに縁側は隣近所を結びつける縁だったわけだ。
□: 今の家には縁側が無いよね。
☆: さびしいことだね。自分の家だけのことで精一杯なんじゃろうな。
□: 中国やヨーロッパの家に縁側があるって聞いたことが無いね。
☆: 家を壁で囲ったりするから、縁側が無いんだろうね。外に開いているのは日本の家屋の特徴だね。

縁とは何か

□: 縁側で恋人同士が座って縁を結ぶ。
☆: 旨いこというねえ。縁側は家の側だけど、外に一番接している場所だから縁が結べるんだね。
□: 縁側って家の周縁という意味だから、中心ではなく端っこなんでしょ。
☆: いやいや、だいたい物事は中心よりも周縁で起こるんだ。そして周縁から中心に向かっていく。
□: 歴史では、周辺から新しい政権が出てきますね。ところで、縁とはどういう意味なんですか? 縁起が悪いとか言いますよね。
☆: 寺の縁起とかも言うね。縁を切るともいうね。縁とは仏教の言葉だよ。お釈迦様が、私たちの存在は、すべてのものとつながりあっているということを発見したんだね。だから、ものごとには必ず因(原因)縁(条件)因果(結果)がある。
□: おふくろが「 一人で生きていると思うなよ」といつも言っていたな。そんなことは当たり前だと思うけど。
☆: 当たり前だけどこれを本当にわかっている人は少ない。すべてのものがつながっているということは、関係の中で存在しているということだ。ということは、関係がその人のありようを示しているのであって、その人の固有のあり方というものはないということになる。
□: 私という存在は、家族や生まれた国、地域や育った環境によって決まってくるということかな。

縁起の思想

☆: もっと言えば、私という確固たる自我があるわけではない。周りとの関係で私があるのだといってもいい。龍樹菩薩は「 親」という言葉をとりあげ、「 親から子どもが生まれるというけどそんなはずはない。子どものいない親は無い。無いものからどうして子どもが生まれるのか。子どもがいるから親になる。逆に親のいない子どもは無い。親も子もどちらも原因であり結果である。これを因縁という。そして、因縁生起といって、他との関係が縁となって生起することが縁起である。」と言っている。
□: 縁という事は関係性ということなんですか。
☆: そういってもいいね。ただ一方的な関係ではなく、相互依存的な関係だけどね。もっと言えば、自分の性格や行動は、「 我」という確固たるものがあって出て来ると思ってはならない。様々な因縁の中で存在している。
□: そうすると、自分の行動を周りの責任だと言って、自分で責任を持たない人も出て来るのではありませんか。
☆: そう思う自我も因縁から生じる。だから縁起として私は存在する。我が有ると思ってもいけないし、無いといってもいけない。
□: 禅問答のようになってきましたね。縁起として私は無いのではなく在るという事ですか。どこかに責任があるかどうかなどと考えることがすでに実体を求めているということですね。
☆: 様々な縁の中で私が存在しているのだから、そういった関係性は私を有らしめている大事なもの。そして、他のものにとっても関係しているということで私は必要なものということになる。無責任ではありえないでしょう。

縁起と空

☆: (私という実体が)有るのでもなく、(私を有らしめている縁起が)無いのでもないということが空ということです。
□: 縁起が良いとも言うけど、縁起が悪いとも言うね。悪い縁もあるんですね。
☆: 縁起から言えば、「 良い悪い」も有るのではなく無いともいえないのだけれど、逆縁ということもある。そういう時は縁切りといって縁を切ることが昔からあった。
□: 縁切り寺って聞いたことがあるな。いじめられていた嫁さんがこの寺に逃げ込むと縁を切れるっていう話を聞いたことがあるよ。
☆: いじめ問題もこの「 縁」で考えると、一人ひとりの性格などというものは変えられないけど、その問題を取り巻く関係性は変えられるということになる。
□: つまり、一人ひとりの性格を問題にするのではなく、彼らを取り巻く関係性を分析し、それを変えればいじめはなくなるということなんですね。因縁だから定まったものと考えるのではなく、変えることができると考えるのか。
☆: そもそも「 いじめ」は人間の関係性が造りだしたものだから、在るともいえないし、無いとも言えない。このいじめ問題は縁起で考えるともっと掘り下げることができる。
□: 善悪(いじめ)は縁で起こるということでしょう。としたら、善い縁を選んで悪い縁を避ければ悪いことは無くなるということですか。
☆: そうだねぇ。善い人と付き合い、悪い人との付き合いは自分からは求めないことが大事なことかな。でもね、これだけは忘れてはいけない。「 わが心の善くて殺さぬにはあらず」・・・私の心が善いから悪いことをしないのではないということを。
     二〇〇七、七
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