脳の中の小人たち

 先日、中学2年生の子とこんな対話をした。

一、僕の中に小人さんがいる

「 どうして直ぐに叩くんや。叩いたらだしかんと言うことは知っとるやろ。」
「 小人さんがいて、勝手に動くんや。」
「 その小人さんは君の命令が聞けんのか?」
「 うん。僕のことを無視していつも勝手に動いとる。」
「 そうか。原因は君の中の小人か。それじゃ、君に叱ったって駄目なわけか。よし、今度からは君じゃなくて、君の中の小人さんを叱るけどいいか。」
「 うん。小人さんを叱って。」
・・・(しばらくして)
「 こら、また頭を叩いた。ちょっと小人さんを連れてきて。いいかい。君を叱るんじゃないよ。小人さんだからね。」
(手をとって、まじめな顔で手に向かって説教を始める。)
「 どうして、又やったんだ。いつも暴力はいかんと言っとるやろ。そんなことでは立派な大人になれんぞ。いい加減に目が覚めないかん。いつまでも何時までも同じことをしていると成長しんやろ。そろそろ気がつかないかんのや。いいか。今度又叩いたら、お仕置きをするからな。でも、ついやってしまうんやろ。なぜやってしまうんかわかるか?それはな、君が友だちのことを下に見ているからや。叩いても許してくれると思っているからや。・・・」
(本人は笑いながらも真面目に聞いている。)

 さて、この子が小人さんの所為にしていることは無責任で間違っていることだろうか。私は、小人さんがいて勝手に動いているというのは正しい感覚だと思う。私自身振り返ってみると、自分の行動を自分の意識が統括しているかというと、いたって心許無い。この子が言うように、私の中にたくさんの小人さんがいて勝手なことをしていると感じることの方が多い。
 例えば、問題が生じた時、とことん考えても良いアイディアが出てこない場合は、寝ることに決めている。一晩寝ると、次の日に良いアイディアが生まれることがある。小人さんたちに任せるのだ。逆に、なぜこんなことをしたのだろうかと悔やむことも多々ある。簡単に小人さんたちに任すこともできない。


二、脳の中の小人たち

 この子が言った「 小人さん」は、脳科学では「 脳の中の小人たち(=ニューラル・ネットワーク(脳神経回路網)のエージェント)」と呼ばれている。ニューラル・ネットワークというのは、脳細胞どうしを網の目のようにつないでいるケーブルの配線のことで、一人ひとりに複雑極まりない固有の配線がなされている。その配線は一種のシステムであり、その中にいる小人たちは勝手に働いている。これは心臓など身体の様々な働きをイメージするとわかりやすい。
 そして、その配線にはシステムを統合している中心が無いようなのだ。これは、人前であがることなど意識でコントロールできないことをイメージしてみるとわかりやすい。もっとも、心臓などの動きを意識でコントロールできたら大変なことである。
 でも、私たちは自分には意識があって、思考をしたり自分の身体を動かしていると思っている。実は、私たちの意識は、脳の活動の中心であると錯覚しているだけで、その後ろで膨大な無意識の小人たちが活動していて、意識はその小人たちの活動を眺めているだけなのだ。(受動意識仮説より)


三、自分を自己がコントロールしていると思ってしまう

 ただし、小人たちが勝手に動いているとすると、その人の主体は何かが問題となるし、そんな自分のことに責任が持てないような人では困るということになる。ここが問題なのだ。実は先ほどの小人さんたちへの語りかけは、本人の意識に語りかけている。やはり意識がどの程度小人たちを統合できるのかということが教育ということになる。
 私の結論を先に述べると、だからこそ自分(脳の中の小人たちのこと)を知るということが大切なことになると考えている。忘れてはいけない時に忘れてしまう自分であること、してはいけないことをしてしまう自分であること、不謹慎なことを思ってしまう自分であることを自覚することが最も必要なことではないか。
 その場合、忘れてはいけないこととは何なのか、どんな事がしてはいけないことなのか、不謹慎なこととは何かを知らなくてはいけない。それが道徳であると言ってしまえばそれまでだが、小人たちのことを自覚すると、少なくともその道徳が実行できないから道徳などどうでもよいと考えることは無くなる。
 意志が強く、自己コントロールができる人は道徳を実践することは簡単なのかもしれない。しかし、意志が弱く自己コントロールができないような人はどうしたらいいのだろうか。意志が弱い人たちに、意志を強くしなければならないと迫ることはかえって苦痛を与えることになる。いや、意志が強いと思っている人も自分の弱さをごまかすためにかえって罪を犯すこともあるのだ。
 ただ、私たちは自分の中にコントロールできない弱さを持っているからと言って、その弱さが許されているわけではない。弱さが罪を生み出すことはたくさんある。そして、弱い人間だから強制的に律する必要があるという考え方を生み出す。さらに、自主的な子どもを育てることだと言いながら支配的に教育するという矛盾を生みだす。


四、小人たちを支配することはできない

 先ほど結論として、自分を知るということが大切なことであると述べた。自分を知るということは、自覚することだけではない。世界を知ることも含まれる。世界を知らないと自分自身も自覚できない。小人さんの例でいうと、小人さんを通じて自分自身を相対化することなのだ。そういう自分であることと同時に、自分の中の様々な小人たちのことを知ることは世界を知ることにもなる。
 そして、自分の中の小人たちとの付き合い方も自覚できるようになる。ポイントは、あくまで「 付き合い方」であり、小人たちを「 支配すること」ではない。この小人さんたちを支配することは不可能なのだ。

 だから、私たちは、「 意識が私の脳の中心であり、私をコントロールしていると錯覚してしまうところがあること」は自覚しておかねばならない。これが仏法でいう「 諸法無我」ではないだろうか。
 逆に、私たちは自分をコントロールできなくて欲望のままに行動していると考えることも禁じておかなければならない。だいたい、仏法ではどちらかに偏るのは間違いである。
 心臓の例でもわかるように、脳の中の小人たちは私たちの「 いのち」である。その「 いのち」を最も生かせるにはどうしたらいいのか。そう考えると、小人さんたちとの付き合いの仕方は「 いのち」を生かすことでもある。そして、「 いのち」だからこそいとおしさも出てくる。
 そして、その「 いのち」を生かしてくれるのは、「 あなた」しかいない。

二〇〇八、七
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