毛坊主と妙好人 その二

   ― 妙好人の生き方 ―


我と来て 遊べや親の ない雀
やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり
雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る
長き夜や 心の鬼が 身を責める

 小林一茶(宝暦十三〜文政十)の生涯は、実に苦難の連続であった。江戸に出て俳諧で身を立てようとしたが、父の死後、郷里へ帰って百姓をする。
 継母との遺産をめぐる確執、生まれた子や妻に先立たれ、自身は病気になって六十五年の生涯を終えた。そういった生活の中から弱いものの立場からの俳句が生まれる。
 彼の句集「 おらが春」の最後に次のような文章がある。

他力信心、他力信心と、一向に他力にちからを入れて、頼み込み候輩(やから)は、つひに他力縄に縛られて、自力地獄の炎の中へ、ぼたんとおち入り候。・・・
ただ自力他力、何のかのいふ芥もくたを、さらりとちくらが沖へ流して、さて後生の一大事は、其身を如来の御前に投出して、地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御はからひ次第、あそばされくださりませと、御頼み申すばかり也。かくのごとく決定しての上には、なむあみだ佛という口の下より、欲の網をはるの野に、手長蜘の行なひして、人の目を霞め、世渡る雁のかりそめにも、我田へ水を引く盗み心をゆめゆめ持つべからず。しかる時は、あながち作り声に念仏申すに及ばす、ねがわずとも佛は守り給うべし。
是則ち、当流の安心とは申す也。穴かしこ。

  ともかくも あなた任せの としの暮

 ここには一茶が、百姓をしながら安心を求めて聴聞を重ね、最後に到達した心境が示されている。一茶も妙好人の一人であった。

 さて、前回毛坊主をとり上げ、その際、在家仏教が念仏の教えの真髄であるということを述べた。毛坊主も道場を主催しながら、葬儀や法事や法話などをした。そして、さらに在家の人たちの中で信心を得ていく人たちが出てくる。
 出家をせず、生産にたずさわりながら仏法に生きていく道。それが念仏の道である。その道の先に妙好人と称する人たちが出現する。彼らが自ら称したわけではない。善導大師の散善義にある「 もし念仏の人はすなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、…」から後の人が名づけたものだ。


一、我田へ水を引く盗み心

 山農村の生活において、最も大切なものは水であった。田に水を引くことは、米を育てるためには最も大事なことであり、水は命と同じくらい大事なものであった。そして、そこから水をめぐる争いも多くなってくる。
「 うちの田にやる水をとるな」「 まずおれの田へ」「 うちの田んぼを締め切って、自分の所へ引いている」…と。
 先ほどの小林一茶の文章の中には、「 我田へ水を引く盗み心をゆめゆめ持つべからず。」とある。水を引くことが盗むことなのかと不思議に思うほど、彼の中で葛藤の体験があったのだろう。それくらい村の人たちにとって水引きは重要なことであった。
 妙好人の中には次の様な行動をとった人もいた。

(1)他の田へ水を引かせた播州(兵庫県南西部)の卯右衛門
 ある年の夏は日照が続いた。卯右衛門は田の水を引きに行くと、川下の人が水を引きに来ていた。
 「 わしは川上だから、あんたがまず引きなされ」
と言った。川上の人と出会うと、
「 わしは川下じゃからまずあんたの方から引きなれ」
と言って帰ってきた。

(2)水を勝手に引く他人を自らのこととした石州(島根県西部)の九兵衛
 ある年の夏、日照の時、山へ草刈に行った九兵衛が自分の田んぼを見ると、何者の仕業か溝の口を塞ぎ、自分の田へは水が一滴も来ていないで全て他人の田へ水が流れるようになっている。
 彼は草も刈らずにすぐに家に帰ると、仏壇の前で拝礼をし始めた。それを不思議に思った人が尋ねてみると、彼は溝の口のことを語り、
 「 これはわしが前世に人の田へ掛ける水をせき止めた報いである。かっての自分だったら腹の立つに任せてまた人の水口を塞ぐはずだった。が、前世の業だと気づかせてくださったのは大善知識の御教化のたまものである。このお礼を申さないでおかれようか。」
と語ったという。

○この行動に対して村人がとった行動は、なんと!
 百姓にとって命ほど大事な水をいつも譲っていた卯右衛門に対して、後に村人はこれを知って、卯右衛門が水引きにでた時は他の人は一人も出なかったという。
 九兵衛に対しては、村人はこれを聞いて、さても我々は恥ずかしい心であったと、それ以後は九兵衛の田にはいつも水が当たるように仕向けたという。
 彼らは何もせずに村(社会)を変えているではないか。


二、私が泥棒であった

 同様の話がある。石州の善太郎という人は、ある時夜中に盗人に入られた。彼は息を詰めて念仏も申さぬようにしていた。盗人が物を持ってでようとした時に、
 「 私が前世にて借りた品を取りに来てくださったのはご苦労様じゃ。」

 これを見ると、妙好人の行動が自ずと村における道徳を形成していったことがわかる。その根底には、「 一切の有情は世々生々の父母兄弟である」という思想があった。
 「 前世の宿業によって」というと、古臭い宿命論であり、かっての私はこの考えに肯けなかった。しかしこれは、他人の行動・盗みは、過去の自分がやったことであると考えることから来ている。
 この盗人は、かって自分が犯した盗みの被害者で、今それを取り戻しに来た。なんと、被害者と加害者が逆転している。つまり、盗人は自分であったと考えているのである。前世の云々は方便であり、一切の過去(宿業)は、今現在の自分の生の内にあると、とらえているのである。これこそ縁起(宿縁)による、諸法無我(自他不二)の考えである。
 自分とこの盗人は同じである。自分も盗みをする人間であった。しかし、今は仏の呼びかけを聞き、盗み心も出ないようになった。だから有難い。善智識や仏への感謝の念仏となる。

 不思議なのはこういった考え方がなぜ生まれたのかということである。教えられたり、こうしなければならないと強制されたわけではない。  本を読んだわけでもない。彼等は文字も読めない無学の人たちであった。無学であってもこのような平等観や無我思想をどうして得ることができたのか。


三、彼らはいかなる修行をしていたのか

 実は彼らの修行は百姓仕事であった。彼らはいずれも無類の働き者であった。彼らの仕事振りを見ると、そこに仕事への集中を見ることができる。
 牛を人間と同じように扱った筑前(福岡県北西部)の正助さんを紹介しよう。

 ある時、蝗の被害で種が尽きた時、彼は自分の田で収穫した種を村人に無償で配布し、自らは草の根や木の皮を食べている。彼の田が被害にあわなかったのは毎日見回りをしていたからだろう。彼は、朝に牛の家に行って牛に語りかけ、その日の仕事を頼み、夕方にはその日の苦労を感謝し、鞍を自分で背負って帰ってきたといわれている。

 どうやら彼は牛を道具や自分の所有物として見てはいない。全人格をかけ仕事に、牛に接していたことがわかる。まさに〈我―汝〉の世界である。全身全霊を傾ける精神の統一。そこには能動的な行為が受動的な行為に転じて区別できなくなる時がある。そのとき彼は、切れ切れの断片ではなく自己の全てをあげて行為する全体的人間となっている。
 彼らは、仕事を通じて能動的な行為が受動的な行為に転ずるような修行をしていたといっても良い。


四、妙好人の廻心

 彼らは無学であり、文字も読めない人が多かった。若い時には手のつけられない不良だった人もいる。また若い時から苦労している。無学な彼らが本や経を読めたはずがない。では、彼らはどうやって廻心を果たしたのだろうか。

(@)出会い  聴聞を重ねながらの善智識による化導
 まず挙げなければならないのは、彼等の周りに善智識がいたことだ。聴聞しながら生活の中で思い当たることがあると、彼等は自分の生き方に変えていった。生きた学問といっても良い。本を読むのでなく耳で聞いて生活に生かしている。

(A)仏による自己の受容
 彼らが苦しんだのは、自己の悪人性・凡夫性であった。そして、それをそのまま仏の前に投げ出すことに思い当たる。自己投棄であった。しかもそれは深い自己の省察からくる凡夫性の自覚を伴っていた。自力と他力の言葉を使えば、それまでの自力で生きてきた自分が消滅し、他力の世界に入ることであった。それは、単純に自分自身の凡夫性の自覚と、それをこそ救うという誓願を信ずることであった。

(B)救われていることの確証
 そして、凡夫であるがゆえに救われるという一点を、日々の生活で確証していく。それは先ほど挙げたいくつかの例の中に示されている。

(C)真理の確証と真理が現実化していく力
 〜せよ・〜せねばならないといった指示や強制があったわけではない。彼らの行為は内から沸き起こる行動であった。そして、同時にそれは仏の慈悲の確証でもあった。だからこそ仏の御恩と感謝したのだ。


五、妙好人の見ていた世界

 彼等の行動はあきらめとは違う。一生懸命に働き、自他の区別無く、そういう自分であることすら仏に感謝する生活をしている。
 猟すなどり商いの世界は、周りを「 対象物」としてとらえる傾向がある。ブーバーはそれを 〈我―それ〉の関係と示した。妙好人の世界はどうやら〈我―汝〉の世界のようである。
 自分の凡夫性を深く自覚し、日々の生活の中で起きることがさらにそれを検証し、気づかせてくれた仏に感謝する生活。そして、それが周りをも変えていく。

 山村共同体には生活道徳が必要であった。水争いや入会権など様々な問題が出てくる。当然警察などはいない。彼等は真宗の教えを共同体の精神的な支柱としていって自分たちの生活道徳としていったのだろう。
 例えば、「 同じ親様の子」「 世々生々の父母兄弟」「 私もかって盗んだ」というような平等思想。彼等は他者の行為を自分の行為と見ている。まさに「 無我(自他不二)」の世界である。他人を己と同体と見ていたからこそ、村の喜びを己が喜びとできる人たちであった。
 飢饉の時、自分の田の収穫を種として出し、己は村人と同じように草の根を食べている。だからこそ、村人たちは彼らを大切にし、彼らの行動を自分たちの道徳としていく。

 妙好人の生き方は、十分に現代のモデルとなりうるのではないだろうか。

    仏暦二五五二年 八月

 心臓手術後に、ベッドの上で「 ブーバー対話論とホリスティック教育」を読みながら、その視点でまとめたもの。

参考文献
 高田満【人格の完成者と社会の形成者の一典型としての「 妙好人」

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