二つの「私」・・・「私-それ」の「私」と「私-汝」の「私」

 二つの「 私」があります。
 えっ、二重人格なのですか。いいえ違います。「 もう一人の私」ということですか。いいえ、そうではありません。
 私たちは「 私」が二つあるということを知りません。私たちはいつも一つの「 私」しか知らないのです。知らないから、私利・私欲のために行動しています。私が主体であり、私が何かするのだと思っています。
 私たちは、「 念仏を称えると何か良いことがあるのか?」と疑問を持ちます。そこには「 私が」「 私にとって」・・・、という主語や目的語が入ってきます。この主語である「 私」という言葉しか私たちは知らないのです。
 もう一つの「 私」は、「 私は仏を信じる」というように、「 主体である(主語になる)私」ではありません。
 では、もう一つの「 私」とは、どのようなものなのでしょうか。

 最初に道元禅師です。なんと主語と述語(目的語や動詞)を自在に入れ替えておられるのです。
以水爲命しりぬべし、以空爲命しりぬべし。
以鳥爲命あり、以魚爲命あり。
以命爲鳥なるべし、以命爲魚なるべし。
このほかさらに進歩あるべし。
         道元禅師 正法眼蔵「 現成公案」
鳥は空をいのちとする 魚は水をいのちとする
空は鳥をいのちとする 水は魚をいのちとする
空はいのちを鳥とする 水はいのちを魚とする

 単なる言葉遊びではありません。そこに仏法の基本があるのです。主語はその現象の主体(我)を示します。日本語には、主語がなくても述語だけで表すという特徴があります。主語がないとは、主体が曖昧になるということですが、そこには主体(我)という考え方を相対的にするという働きがあります。
 ここで述べられていることも、状態(関係性)のありようを主語を変えることによって、如実に表現しようとされています。魚も水もいのちも、全てが平等なのです。「 いのちは水を魚とする」と変えても意味が通じてしまうのです。そこに存在するのは縁起だけです。
 こんどは、主語に「 私」を持ってくるとどうなるのでしょう。
私が空を見上げる
空が私を見ている
 ある少女の詩だそうです。この二つの文章には大きな違いがあります。なんてきれいな空なんでしょうと、私がこの美しい空を見ている。でも、その私よりも空の方が大きいと気がついたとき、空が私を見ていると思わず口をついて出たのです。
 「 私」は、全てのものに働きかけていく主体であり、主語は「 私」であると思っているのが私たちです。その意識をふっとばしたのが、「 空が私を見ている」という大転換です。
 これは、信心を考えたときにはっきりとしてきます。

私は仏を信じる
仏が私を信じる

私が真実(仏)を知る
真実(仏)が私を知る

 私が仏を信じていると思っていた。しかし、実は仏が私を信じていたのだ。「 仏が私を信じる」とはどういうことでしょうか。「 私」にとらわれている時には、理解ができない文章です。でも、この二つの文章を比較したとき、「 私」とはどういうものなのか考えざるを得なくなります。
 仏法では「 我」を否定して「 無我」を説いています。でもそれは、「 私」の否定なのではありません。私たちは無我になれるほど単純な生き物ではないのです。私たちに必要なのは縁起としての「 私」です。

 「 私は仏を信じる」から「 仏が私を信じる」へ

 細川巌師は、これを人が生まれ変わる契機ととらえられておられます。マルティン・ブーバーの「 私-それ」と「 私-汝」を二つの「 私」ととらえておられるのです。私はこれは世界が二つあるのだと思っていました。ところが「 私」が二つあるのだといわれるのです。
さて、世間道から仏道へ、どうしたら人が生まれ変わるのか。それをブーバーは次のように言っている。「 私」に二つある。「 私-それ」の私と「 私-汝」の「 私」との二つがある。
 「 私-それ」の私は世間道の私。「 私-それ」はドイツ語では「 Ich-Es」、英語では「 I-It」の「 それ」であり相手を道具化するのである。道具として考えるような私である。これを世間道の私、ドングリの殻の中に入っている私という。例えば仏教をなぜ聞くのかというと、仏教を利用して私自身が明るい人間になりたい、自己充実のために聞くのだ、というように道具にしてしまう。
 「 私-汝」の私は「 Ich-Du」である。Duは切っても切れない関係にあるものであって、それを「 友よ」という。「 友よ」とよびかける「 私」である。私の欲求を満足しようとして相手を考えるような私、これは「 私-それ」の私である。「 私-それ」の私から「 私-汝」の「 私」に変るのが、生まれ変わりということである。

どうしたら変れるのか。ブーバーは言った。この私を「 汝」と呼んでくださる人に遇う、即ち私に「 Ich-Du」と呼んで下さる方に遇うことによって、私が「 Ich-Du」のIchに変っていくことができると言っている。世間道の私が仏道に入る、その回転はどうしてできるのかというと、究竟位の彼方から私を呼ぶもの、即ち本願南無阿弥陀仏によって、はじめて人は転回するのである。南無とは帰れ、共にあれというよびかけである、これを浄土門という。いみじくもブーバーが言っているように、(彼はユダヤ神学の泰斗であった)神のよびかけによって人は変るのである。人間が努力して変っていくのではない。よびかけによるのだ。そこは全く軌を一にしていて、本当にブーバーの表現は優れている。私を「 汝」とよぶものによって私が「 私-汝」の「 私」に変るのである。そこに「 友よ」というよびかけをもつ「 私」が生まれる。本当に慈悲の人間に変るのである。これを浄土の慈悲という。
           細川巌師  歎異抄講読 第四章
 「 私-それ」の私は、主語となり目的語となり、仏や神に自分の都合のいいことを一方的に願います。でも、「 私-汝」の私は、呼びかけられる「 私」です。私は真実ではないけれど、真実が私に呼びかけているということが了解できる「 私」です。
 ところで、この私はどちらの「 私」かと問うと、どう考えても「 私-それ」の私でしかありません。毎日毎日、そのような世界で生きています。いつも「 私が仏を信じる」のです。私の方が仏よりも大きいのです。
 でも、このように「 私-汝」という「 私」があり、もっと大きい世界があるのだということを知ってしまいました。これから仏との対話が始まります。仏はどんなわがままな言葉も聞いてくださいます。念仏という、私と仏(あなた)との対話を通して。

     二〇〇八、十 
   目次へもどる