餓鬼大将(がきだいしょう)への季節の(いざな)

 識らず識らず覚えた野の道山道・跳び石伝いの川渡り。在りし目の山の童(わらべ)は野山を天馬の様に縦横に駈け巡った。どこにも童を温かく受け入れてくれる世界が展がり、草いきれの微風(そよかぜ)が吹き抜けていた。
 勉強は学校に限られ、校門を外れると屈託のない自由な天地、道草の道が四方八方に続いていた。日の暮るるまで、時には夜空に星のまばたきを仰いで帰宅することもままあった。だって家に帰ったって両親は山の畑の農作業、星をいただくまで帰らない。
 ひっそりと静まりかえる我が家はあか留守。縁側に学校鞄を放かって一目散に本日目指す山や川へ。山の童にとって長良の源流奥美濃の山里は、自由だったし天地も広かったし、思う存分遊べる仲間もいた。

 今朝、二人っきりの食事の合間、老妻が、
「そろそろ山栗の落ちる頃じやなー。」
と、何を思案したのか寂しげに口籠もった。最早(もはや)叶えられない老いた者のたわ言か後が続かなかった。
やや暫し、
「うん、そう言えば、リュックサックに一杯拾って、背負ったまま又、拾いかけたが、余りの重さに耐えかねて一まず下ろしてと薮影に、更に拾い始めたがだんだん辺りが薄暗くなり、さて、リュックはと修羅真剣に捜したが見付からず、夜道をとぼとぼ、家へ帰って今日の顛末。家族みんなにやしまれ(馬鹿にされ)、次の日の朝、昨日の所へ走って行ったんじやったが、又ぞろ落ちとるにも落ちとるんじや、掻き集める程、見て見ん振りをしてリュックを背負ったが、後ろ髪をひかれる思いじゃったぞ。」
 妻はさもありなんと黙してうなずくだけだった。何を思いついたのか突然、
「そうじゃ。ハセバじゃった。」
 初めて耳にする言葉、妻はここより更なる山奥で育った。尋ねると榧(かや)に似た木の実(ハシバミ)であるとのこと、大量に採れない、採って来た後の始末が大変なこと等で、引き続き言わんとする秘めた話題を語り始めた。
「私達が拾ってくると、お婆ちゃん(実母)が外皮を腐らせたハセバを丹念に素足で捏(こ)ねつぶして中の実を選り出し、きれいに洗って軒先に干し、少しずつ炒って食わせておくれるんじゃったが、あの実の美味かったことよう忘れんし、お婆ちゃんのハセバ捏ねの姿が眼に浮かんでくる。」
 と、しみじみ語ってくれた。
 会話は今は幻となった山の幸を次から次へと話題にのせてくれた。あの幼な馴染みのはらからが、四季折々に戯れた山の辺、川辺、原っぱの足跡、いつかもう一度辿ってみたいと思っていた矢先でもあったので、妻に合槌を打ちながら調子を合わせた。
古し秋 姉妹
茸狩り睦(むつび)し彼の松山
幼き頃の想い出は
ああ懐かしき夢と残る
 女って過去を追う動物と聞いておったが、うちの老妻はこんな歌まで記憶していた。
 さてさて野山の縮図、先ずは春三月ももう月つごもり、あのいまわしい背丈を越した深雪もいつしか消えて、其処此処に土のにおい。田の畦道にスイコメ(スカンポ)が芽吹く。その若葉、程なく立ち上がる茎を見つけ、今を盛(さか)りと許り、餓鬼共を誘って田の畔に走り、ここを先途と許(ばか)りむしり食い、時にはふところに畳みこんで家にまで持ち帰った。先ずはスイコメが春一番の野辺の嗜(たしな)みだった。不図(ふと)、学校の唱歌で習ったスカンポの歌が脳裡に甦(よみがえ)った。
 「スカンポというのはお前達がしょっ中食いおるスイコメのことじゃぞ。」
と、素っ気なく教えてくれたY先生の顔まで浮かぶ。
スカンポスカンポ
ジャワサラサ
昼は蛍がねんねする
ぼくら小学三年生
今朝も通ってまたもどる
 軽快がリズムと歌の文句、他の歌はほとんど記憶にないが奇妙にこの歌だけは六十有余年経った今でも□ずさめる。遅刻・道草は目常茶飯事、叱られて暫し廊下に立たされるだけのこと。今では誰も見向きもしないあの草原の鬼薊(あざみ)、表皮を剥いだ茎の鮮烈な味覚、野の神様が童に与えた年に一度の贈りものであった。
山の畑の桑の実を
小籠に摘んだは
まぼろしか
 また、赤とんぼの謡が浮かぶ、畑という畑の畔には決まって桑の木が植えられ、古木には小鳥も宿り、囀(さえず)りも聞こえた。桑の実をツナビといって甘酸っぱい果実、直に或いは竹筒に詰め込み、棒で突き砕いて果汁にしてまで飲み下し、全身全霊を癒した。どれもこれも夢幻の彼方の置きみやげ。
「降る雪や
   明治は
    遠くなりにけり」
 明治も晩年生まれの母だったけれど、あの胸板に刻み込まれた食の宝典。おいら童の頬張った野山の幸も、きっと収められていたに違いない。六人も七人もの子供、よくぞ育ててくれたものだ。極貧の日暮らしの明けくれ、食の為に骨身をやつし、言わず語らず中に絶えず何かを諭してくれたおふくろの生きざま、まして子供達も逞(たくま)しくなければ置き去りにされた。
静かな静かな里の秋
お背戸に本の実の
落ちる夜は
あゝ母さんと唯二人
栗の実煮てます
いろりばた
 父も去り母も去って幾年、山際の実家を訪らうこともなくなったことを嘆く老妻。今もて背戸の山に木の実は落ちれど、その幽けさは世の喧噪にかき消されて聞く術もなくなっった。
 「ほんのこの間のことの様な気がする。」
と、洩らした。唯懐かしのメロディとして伝える。
 世は正に飽食の時、巷には洋の東西の産品が所狭しと並べられている。現代人は唯食品店に走って、これら山程積み重ねられた商品を選り好みして購い消費するだけ。時代相にしては誠に昧も素っ気もない。地球の資源にも限りがあるぞ!何時か枯渇する時がやってくるぞ!と、誰かさん言い放った人間の独善の世界、買い物の残滓ダイオキシンの根源が田舎道にも渦高く積み重ねられるようになった。

 夏休みに京都の息子夫婦が三人の孫を連れてやって来た。翌朝、向かいの山の城跡へ行って見度いと言うので、同行案内することにした。ほんの目先の山だというのに、その支度たるや驚き挑の木山椒の木であった。ナップサックに多種多様な菓子を詰め込み、山には清水も湧き出ているにと言って聞かせたのに、カンジュースまでゴロゴロ人れよった。たわけめがと眼を外(そら)したその時、小学校四年生の孫が、
 「おじいちやんのちいちやい頃、どんなキャンデー食べとった。」
と、弁口(べんこう)な質問を浴びせかけて来た。
 「うん。それは山登りの途中に話してあげるよ。」
と、答を留保して出発した。道すがら、まず先述のスイコメを大げさに採って口入れた。虎杖(いたどり)も咬み咬み山道を先になり後になり、これ見よと許り影を映して登っていった。
 「おじいちゃん、先から何良べとるの。」
と、四年生の孫、よーし!この時じゃ、スイコメと虎杖を孫の目の前に突きつけ、
 「これがおじいちゃんの子供の頃のキヤンディじゃぞ、よく見てみい。」
と、喝を入れ昔の姿を教えたつもりじゃったが、それをちらっと見た孫が、
 「そんなもん、兎の食うもんじゃん。」
と、にべもなくあしらわれ、後の言葉に窮した。

 想えば里には一軒きりの駄菓子屋しかなかった。並べられた菓子の類も数える程、訪れるお客もなく、たまさか買いに行くと賞味期日もない鄙(ひな)びた菓子が皺(しわ)くちゃの老婆の手でつまみ売られていたし、虫ずっていた。それに引き換え野の草、木の実は新鮮で生きていた。今の子供にして見れば兎の食うもの獣の餌としか映らないかも知れないが、在りし目の童は飽く程食って生きて来た。否、それを食わねば飢えをしのぐことができなかった。
 今ここに、大正・昭和初期の山のわらわべ達が、四季を通じて親しんで来た野山の懐かしのつれづれを再考してみようと思う。
 「お父ちゃん、あぐりが始まったよ。」
と、老妻の呼び声、テーマソング “ゆすらうめ”の軽快な音響が茶の間から流れて来る。さて、今目はどんな舞台が展開するやら、やおら筆を擱(お)いて立ち上がった。


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