南瓜粥(かぼちゃがゆ)」・「()めし」

 今日は冬至。奥美濃の山里は既に雪の下、村の暮らしを支えてきた一本の幹線百万円道路も、人一人すれ違えるだけの狭くて細い雪道と成り変わった。この雪の障壁は翌春三月までは解かれることなく完全な孤立した村として、(まま)ならない生活を余儀なくされる季節なのであった。
 既に働き手の親父や若者は仕事先を見つけて出稼ぎに走り、取り残された老人と女房子ども達は、この厳しい雪中寒中の暮らしに耐えていかねばならなかった。
 特に家をあずかる主婦にとっては、除雪の作業、家族の食の(まかな)い、健康管理等々、余人には真似のできない働き振りであった。とりわけ、食生活の面倒見(めんどうみ)は並大抵でなく、貯えられた食材の山も見る見る細る中、おふくろは歯を食いしばってがんばった。一灯火のみの長い冬の夜、冬至頃は家族みんな滅入ってしまうときでもあったが母はめげなかった。冬至に南瓜を食うと中風(ちゅうき)にかからないと、おふくろは決まって南瓜粥を作ってくれた。

 大きなハソリ(鍋)に南瓜を二つ三つ切って入れ、少々の米を混ぜ、ゆるい(いろり)で、ゆっくり時間をかけて夕食に間に合うように()くのが常であった。南瓜の海に青い皮と米とが溺れている様な南瓜粥、飢えているとはいえ、飛びつく程のものではないのでしり込みしていると、
 「冬至には南瓜を食うに決まっとるんじゃぞ。」
と、たしなめる様に木の汁杓子で掬(しるじゃくし すく)ってくれた。無理矢理二膳程、食べるというより飲み下した。鍋にはまだまだ半分余りの粥が残っていた。
 余計(よけい)炊き込んだものだ。おふくろこの粥どうするんじゃろうと、子ども心にも疑いを以て鍋を覗き込んだ覚えがある。そして、この事由が判明したのが翌朝であった。こともあろうに朝食は夕べの南瓜粥の残りもので済ませるつもりであるらしい。
「冬至はきんにょう(昨日)じゃったがな。」
と、口を(とが)らしておふくろをなじった。子どもの(げん)やなんかに耳もかさず、おふくろは手捌(てさばき)きよろしく夕べの粥を朴葉(ほうば)に塗りつけるなり焜炉(こんろ)の鉄器の上に乗せて焼き始めた。子ども達は温まるのを待って、つついて食うのであった。大人達は朴葉によそわれた粥をてんでにゆるい(おき)をかきならしてその上で焼いて食べた。なんだか魔法にかかったような朝食で、焼きお粥を朴葉からこそいで食した。おふくろに強いられた南瓜粥、家族全員で翌朝平らげてしまって安堵(あんど)した思いがある。

叱られて 叱られて
口にはださねど 目になみだ
二人のお里は あの山を
越えてあなたの 花のむら
ほんに花見は いつのこと
 食材の貧困さがもたらす家族の栄養不足は、過去に大きな人災をもたらした。大正十一年の初冬より同十二年の初春に大流行したスペイン風邪なる流行性の感冒(インフルエンザ)は、本村に於いても猛威を振るい、一軒で四人も五人も次から次へと枕を並べて死去する大事件であった。
 私の寺の過去帳に
「当年十一月より流行性感冒にて外国、日本全般にわたり人多く死去す」
と、特別に注釈の施されて項があった。医療の不備は唯手をこまねく里人の姿を映し、子びとねの母をうろたえさせるだけであった。来る年来る年の寒い冬、子ども達は頑是(がんせ)無かった。
「あっ、たまにゃ(たまり)めしでもええが、食ってみたいなー。」
と、母に()した。
「たまり飯か、そしゃ荏飯でも炊いてみるか。」
と、母は秋に()った荏ゴマを炒って、すりこぎですり始め、やがて溜を投入した。これを炊き込んだのが荏めしである。荏ゴマが主体なる故に脂肪豊かで香気を手伝い、見てくれは飯に灰を掻き混ぜた様な体裁であったが、がつがつ茶碗を叩いて待った覚えがある。
「たまにゃ、食事のことでおはってみるもんじゃなー。」
おふくろが即興で炊いてくれた荏飯、初冬から初春にかけての知恵食であった。

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